(1)三島通良と学校医制度
日本の小中学校や高校では、学校ごとに「校医の先生」(正式には学校医)が決まっていて、児童・生徒たちに対して健康診断を行うだけではなく、学校保健計画の立案や保健指導など、学校保健を増進させることが定められている(注1)。そして日々の学校生活では、各校に「保健室の先生」(正式には養護教諭)がいて、子どもたちの心と体の健康に心を砕いている(注2)。
現在の学校保健の骨格となる学校医制度の基礎を築いたのは、武蔵國高麗郡笠幡村(現・埼玉県川越市笠幡)出身(注3)の三島通良〔みしま みちよし〕(以下「通良」、1866-1925)である。通良(本来ならば「通良」ではなく、「三島」と略すべきなのだろうが、本稿には通良の家族名や、地名の三島市や三嶋大社など、「三島」が頻出するので、混乱を避けるために「通良」と略すことにする)は、学校保健(当時は「学校衛生」とよばれた)の歴史に「はじめの一歩」を刻んだ人物として記録されている。通良は帝国大学大学院を卒業した医学博士であるが、文部省の行政官として学校衛生の確立に奔走したのである。
通良の業績について詳しく調べた杉浦守邦氏(注4)は、通良と学校医制度について、次のように記述している(注5)。
日本の学校保健の特徴は、小・中・高校のすべてに、責任をもった学校医がいることである。「この学校の学校医は誰か」と聞けば、校長以下教員は誰でもその名前をあげることが出来るし、児童生徒の多くも知っている。保護者の大部分も知っている。戦前は、小学校の卒業写真帳にはかならず、学校医も職員の一人として写っていたものである。学校医になるときは、学校の設置者(市町村の場合は教育委員会)から辞令が出る、手当てが明記されていて、準公務員として待遇されている。(中略)
このような、世界的に見ても特異な学校医制度を作ったのは誰か、それが三島通良である。
どの学校にも学校医をおく。この制度が、どの学校にも学校看護婦(養護教諭)を置くという制度の母体となったという意味でも重要である。
しかし、学校医が実際に普及するのにはかなりの時間がかかった。さらに学校医が置かれた学校でも、学校衛生の取り組みは必ずしもうまく機能していたわけではない。そのため、やがて生まれた学校看護婦制度(後の養護教諭)についての著書がある近藤真庸氏も、通良と学校医制度について言及している(注6)。
「嘱託学校医」、すなわち今日でいう「学校医」の歴史は古く、その起源は一八九八(明治三一)年までさかのぼることができる(“嘱託”は“専任”と区別するための用語)。
当時、この「学校医」制度は、生成期学校衛生の理論的指導者であった三島通良(一八六六~一九二五)の学校衛生構想の中核をなすものであり、またその三島を主事とする学校衛生顧問会議(以下、顧問会議と略す)の建議に基づいて、文部省が打ち出す学校衛生諸政策の“要”に位置するものであった。
また、明治期の学校衛生について多数の研究論文がある高橋裕子氏も、学校医制度の重要性を次のように指摘している(注7)。
明治政府は、1891年(明治24)に、三島通良を登用して学校衛生取調の調査を命じ、1896年(明治29)には、専門家を招集して学校衛生顧問会議を立ち上げた。ここで三島の調査結果をもとに検討させることで、学校衛生の主要な制度を策定し、明治30年代に公布していった。なかでも、勅令で公布された学校医は、これらの諸制度の中核を担うもので、医学界や教育界に報じられた。
通良は、学校衛生確立のためにさまざまな提言をしているが、彼が目指した学校衛生の構想は、あくまでも学校医制度がその中心にあったことは、重ねて強調しておきたい。
(注1)現在、学校保健安全法第23条において「学校には、学校医を置くものとする」と規定されている。さらに、学校保健安全法施行規則第22条で「学校医の職務執行の準則」が定められている。
(注2)学校保健安全法第9条には「養護教諭その他の職員は、相互に連携して、健康相談又は児童生徒等の健康状態の日常的な観察により、児童生徒等の心身の状況を把握し、健康上の問題があると認めるときは、遅滞なく、当該児童生徒等に対して必要な指導を行う」とあり、養護教諭が保健指導の中心的役割を果たすことが明記されている。
(注3)三島通良について記述されている論文等では、通良の出身地は「武蔵國入間郡霞ヶ関村」などと記述されていることが少なくないが、通良が生まれた1866(慶応2)年には、まだ「武蔵國高麗郡笠幡村」であった。笠幡村、的場村、安比奈新田が明治の町村合併で霞ヶ関村になるのは1889(明治22)年、霞ヶ関村が入間郡に編入されるのは1896(明治29)年のことである。
なお、2021(令和3)年に開催された東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会で、ゴルフ競技の会場となった霞ヶ関カンツリー倶楽部が設立されたのが旧笠幡村(現・川越市笠幡)である。
(注4)三島通良に関するもっとも詳しい資料は、故・杉浦守邦氏(1921-2015)が『学校保健研究』に1968(昭和43)年から1970(昭和45)年に18回にわたって連載した「三島通良」である。杉浦氏は医師であり、執筆当時は山形大学教育学部教授であった。杉浦氏は通良の業績を高く評価し、その足跡を記録していった。
(注5)杉浦守邦『学校保健50年』、東山書房、1996年、p.231~p.232
(注6)近藤真庸『養護教諭成立史の研究―養護教諭とは何かを求めて―』、大修館書店、2003年、p.40
(注7)高橋裕子「明治後期の学校衛生の課題―医学的学校衛生から教育的学校衛生への転換理由―」、『天理大学学報』(251)、2019年、p.3
私たちが学校生活で出会った体験のなかには、通良に関係したものが少なくない。いまでは「当たり前」になっていることも、それはだれかがはじめたことである。通良によってはじめられた「当たり前」の事例をいくつかあげてみたい。
明治20代~30年代の就学年齢についての研究がある近藤幹生氏は、次のように述べている(注1)。
(前略)三島は、「学制」実施後における学校の衛生環境の劣悪さを問題視した。学校校舎の採光から廊下南側説を否定し、北側説を打ち出し、児童に合う机・椅子の考案などもした。そればかりではなく、当時(明治20年代後半)問題になっていた、「7歳就学かあるいは6歳就学か」という議論についても、身体発達調査データやドイツ医学の知見を根拠として決着をつけた。
ここでは通良が関わった「当たり前」のうち、現在の学校生活にまで影響を与えている、就学年齢、身体測定・健康診断、机・腰掛、南北廊下論争について考えてみたい。
ア)就学年齢は満6歳
現在の日本では、子どもは6歳の4月に小学校へ入学する。いまではだれもが当然だと思っていることであるが、明治前期の小学校では、必ずしもそうとは言えなかった。近藤幹生氏は次のように述べている(注2)。
(前略)当初の学校への就学年齢は、一様ではなかった。入学時期も、現在の様に年に一度ではなく、年齢の異なる子どもたちが押し寄せていたのが、当時の近代学校であった。
医学者である三島は、文部省学校衛生行政の立場からも、こうした実態を直視する。学校・幼稚園を巡視し、日本の健康な幼児・児童の身体発育調査データを作成していく。教育現場を見ながら、同一学年に異年齢の児童が混在する子どもの状態は、身体発育の立場から、問題があると主張した。
通良は医学および学校衛生行政の見地から、同一学年に異年齢の児童が混在する状況に異を唱えた。これを改善するためには、子どもの就学年齢を統一する必要がある。そして、その場合には就学年齢を何歳にするか、という問題に直面することになる。
1872(明治5)年の学制発布で就学年齢は6歳とされていたものの、必ずしも厳密に実施されていたわけではない。さらに明治中期には、就学年齢を満6歳にするか、満7歳にするか、という論争が起こっていた。この問題については、1896(明治29)年に第3回学校衛生顧問会議で議論された。学校衛生顧問会議(以下「顧問会議」)は、日本の学校衛生の骨格をなす政策を提言していった極めて重要な組織である。この会議においては、就学年齢を満6歳にするか、それとも満7歳にするか意見が分かれた。採決の結果、ドイツ人医師のベルツが提案し、通良らが賛成した満6歳案が、4対3の僅差で採択された。通良が主張していた就学年齢満6歳説が採用されることになったのである(注3)。
イ)身体測定・健康診断
身体測定の日に「身長が○○センチ伸びた」などと言って喜んだ思い出をもつ人も少なくないだろう。三島通良は、いまではどこの学校でも行っている身体測定・健康診断をはじめた人物でもある。杉浦守邦氏はそのことについて、次のように記している(注4)。
日本の学校保健制度のいま1つの特徴は、全国の小・中学校といい、高校・大学といい、幼稚園といい、全ての学校で、毎年定期に健康診断(身体検査)が行われ、子どもの発育状態、健康状態の審査が行われていることである。
こういうことを行っている国は他にない。これも三島がはじめた。明治33年(1900)のことである。
ただし、現在の身体測定・健康診断の前身とされるのは、1879(明治12)年からはじまった活力検査である。活力検査は1878(明治11)年から学校で普通体操が行われるようになったため、その効果を測定することをおもな目的にした、体力検査に近いものであった(注5)。だから、「活力検査はおもに体育教員によって実施されていた」(注6)のである。通良はこれを改善しようと考える。体力検査の性格を薄めて、健康診断の性格を強めるように改革したのだ。そして検査の担い手も、体育教員から学校医へと変わったのである(注7)。通良の改革は、学校医制度を前提にしたものであった。
通良が身体測定・健康診断を行う上で目標としていたのは「健康な日本人小児の発育状況を示す標準値を導くことにあった」(注8)と考えられる。「発育に応じた適切な教育の程度を定めるには、まずはその発育標準の実態を解明しておく必要」(注9)があったからである。その目的のために、1900(明治33)年、全国すべての公私立学校で、身体測定・健康診断を行うことが原則となったのである。
ウ)子どもの体格に合わせた机とイス
小学校低学年と高学年の児童では体格がちがうため、小学校の机とイスは体の成長に合わせてサイズが変わるのが一般的である。ただし、全国統一の基準はないので、教育委員会や学校単位で対応は異なる。現在の学校の机とイスは、1999(平成11)年から新JISと呼ばれる規格になっている。可動式のものであれば、ひとり一人の体格に合わせることもできる。もっとも、新JIS規格になってから四半世紀たっても、まだ旧規格の机とイスを使用している学校も少なくないのだが。
ただし、明治の中期の小学校はまったくちがっていた。自分の体格に合わない机と腰掛(イスのこと)を使用していた子どもたちがたくさんいたのである。通良は子どもの身体に合わない机と腰掛は、近視や脊椎弯曲症〔図1〕の原因になると考え、次のように批判している(注10)。
(前略)凡そ設備の不適当なる学校は、恰も小児を駈りて、後天性の畸形とならしむる、鋳形の如し。(中略)例之は、近視眼の如き、脊椎弯曲症の如き(後略)は、皆学校と親密の関係を有する(後略)
さらに通良は、子どもたちが健康に学ぶことができる机・腰掛の提言も行っている〔図2〕。
そして1892(明治25)年、通良は日本人学童に適する机・腰掛の標準をつくるように文部省から命じられる。杉浦守邦氏は次のように記している(注11)。
(前略)生徒の身体発育に適合した机・腰掛の標準を作るためには、まず日本人生徒の体位の実態を知らねばならない。しかし今までこれについて調査した成績はひとつもない。(中略)三島はさっそく調査にかかった。
通良は東京市内の小学校3校で、身長と下脚の長さと上脚の長さを実測した。その結果、尋常科4学年と高等科4学年の計8学年を、2年ずつ4段階に区分し、同一学年のものには同一寸法の机・腰掛を与えることを提言した。そして通良は、その基準となる机腰掛標準表を作成した。日本の児童の体格に合わせた、はじめての机と腰掛の標準表であった(注12)。これが、現在のJIS規格の元祖にあたるものである。
エ)廊下は教室の北側
小説家の重松清氏は、2007(平成19)年に『青い鳥』という作品を発表した。さまざまな問題を抱える中学生たちと、彼らに寄り添うひとりの教師(村内先生)の物語である。『青い鳥』は8つのストーリーで構成されているが、そのなかに「進路は北へ」という話がある。主人公の生徒に対して、村内先生からクイズが出される。なぜ日本ではどの学校でも、教室の黒板は西側の壁にあるのか・・・。やがて、その生徒は気づく(注13)。
日本中どこの学校でも、黒板は西 ― 。なんで? いや、ほんとに、なんで?
授業中も机の上に置いた方位磁石をじっと見つめていた。黒板が西だと、校庭は南で、廊下が北になる。そういえば廊下っていつもひんやりしてるな、と卒業間際になっていまさらだけど気づいた。
(中略)
黒板のことを先に考えていたから、うまくいかなかったのだ。最初に考えるのは、校庭の方角 ― 要するに、教室の窓の方角。
教室に陽射しを入れるためには、窓は南向きでないといけない。ただし、右利きの生徒にとっては、右から陽射しが入ると手の影がノートに落ちて書きにくい。だから生徒は、左側を窓にして座らなければならない。つまり、左が南、右が北、だったら必然的に黒板は西の壁、ということになる。
小説にもあるように、冬になると学校の廊下は寒い。廊下が教室の北側にあるからだ。だが、明治のはじめには、廊下が教室の南側にある学校も存在した。特に西日本では、直射日光を避けるために南側に廊下を設置する学校も少なくなかった。1894(明治27)年、通良は学校衛生の調査のために四国・山陽方面に派遣された。このときすでに、通良は教室の通風・換気や採光の観点から南側廊下に反対していた。後に南北廊下論争が起こると、通良はこの論争に決着をつけ、日本中の学校の廊下を教室の北側することを確定させた。杉浦守邦氏は次のように記している(注14)。
(前略)明治33~4頃教室の南側に廊下をとるか北側にとるか、いわゆる南北廊下論争なるものがおき、いずれとも決しなかったとき、三島は再び南西地方に派遣され、北側廊下を適当とすると裁断を下して、この論争に終止符を打ったことがある。以来日本の学校は北側廊下をとることに一決した。このことはわが国の学校建築史上有名な事実である(後略)
通良は子どもたちにとって、よりよい学習環境を用意しようとしていたのであって、必ずしも学校建築を統制しようとは思っていなかったと考えられる。だが通良の提言は、結果的には学校建築の画一化をもたらした。現在でも日本の学校では、一部の先進的な校舎を除けば、どこへ行っても廊下は北側、黒板は西の壁なのである(注15)。
上からの教育統制に反対の立場をとっていた教育学者の山住正己氏は、次のように述べている(注16)。
(前略)二〇世紀に入るころから、東西にのびた校舎に片側廊下、二〇坪の教室の直列という標準化がすすんだ。この場合、教室は南北いずれがよいかという議論があったが、学校衛生主事の三島通良らによる「校舎衛生上の利害調査報告」(一九〇一年)で、北側廊下・南側教室に軍配が上げられ、類型化が進行し、兵舎に似た校舎が増えていった。
(注1)近藤幹生『明治20・30年代における就学年齢の根拠に関する研究―三島通良の所論をめぐって―』、風間書房、2010年、p.2
(注2)近藤幹生『明治20・30年代における就学年齢の根拠に関する研究―三島通良の所論をめぐって―』p.2
(注3)近藤幹生『明治20・30年代における就学年齢の根拠に関する研究―三島通良の所論をめぐって―』p.76~p.77
(注4)杉浦守邦『学校保健50年』p.233
(注5)杉浦守邦「三島通良」(7)、『学校保健研究』11(7)、1969年、p.336~p.338
(注6)西村大志『小学校で椅子に座ること 〈もの〉と〈身体〉からみる日本の近代化』 国際日本文化研究センター、2005年、p.53
(注7)西村大志『小学校で椅子に座ること 〈もの〉と〈身体〉からみる日本の近代化』p.53~p.57
(注8)河野誠哉「近代日本の児童研究の系譜における認識論的転換―分析視角の移動とその近代学校論的意味―」、『近代教育フォーラム』11巻、2002年、p.177
(注9)河野誠哉「『測定』の認識論的基盤―明治・大正期の学校身体検査を題材に―」、『東京大学大学院教育学研究科紀要』第37巻、1997年、p.119
(注10)三島通良『学校衛生学』、博文館、1893年、p.193~p.194
(注11)杉浦守邦「三島通良」(3)、『学校保健研究』11(2)、1969年、p.93~p.94
(注12)杉浦守邦「三島通良」(3)、『学校保健研究』11(2)、p.96~p.99
(注13)重松清『青い鳥』(文庫版)、新潮社、2010年、p.332~p.334
(注14)杉浦守邦「三島通良」(10)、『学校保健研究』11(12)、1969年、p.577
(注15)2024(令和6)年11月22日(金)にNHK総合で放映された「チコちゃんに叱られる!」の「教室の窓が左側にあるのはなぜ?」という特集で、三島通良が取り上げられた。番組には教育評論家の尾木直樹氏が登場した。尾木氏は、明治期には家庭教育で左利きの子どもは右利きに矯正されていたという前提で、右利きの児童・生徒が字を書くときに影ができないように、教室の窓は左側になったこと、そして、それを主導した人物が三島通良であると解説していた。しかし、通良が主に主張していたのは、あくまでも北側廊下であって、黒板の位置は彼の学校建築に関する中心的な論点ではないことは確認しておきたい。また、本当に明治期の左利きの子どもが、皆右利きに矯正されていたのかは疑問である。
(注16)山住正己『日本教育小史』、岩波書店、1987年、p.63
(3)本稿がめざすもの
学校保健という概念があまり浸透していなかった時代に、前述したような実践を行っていた通良は、まさに「わが国学校衛生の創始者」(注1)といえるだろう。本稿では、通良の生涯をたどり、その業績を明らかにしていきたいと考えている。これまでにも、通良の学校保健における業績については、その批判も含めて、さまざまな論文が発表されてきた。だが、彼の生涯をまとまった形で記述した評伝はまだ存在しない(注2)。地域史以外では語れられることがなかった旧笠幡村における三島家の歴史も含めて、通良の生涯を追っていきたいと思う。
もともと筆者の関心事は、旧笠幡村を含む川越市霞ヶ関地域の地域史であった。通良について調べようと考えたのも、彼が笠幡村出身であったからである(注3)。残念ながら、通良は地域ではほとんど知られていないが・・・。
筆者は日本の学校保健制度の礎を築いた人物のことを地元の方々にも知ってもらいたい、という気持ちで通良について調べはじめた。ところが、調査をすすめていくうちに、通良については地元の出身者という枠を超えて、もっと大きな魅力を感じるようになっていった。生真面目であるがゆえに不器用な生き方しかできなかった通良に、少しでも近づきたいと思いながら本稿の記述をすすめることにしたい。
なお、筆者は学校保健が専門ではない。門外漢に通良のことを本当に理解できるのかと言われれば、何とも心許ない気持ちではある。幸い、岐阜大学名誉教授の近藤真庸先生に出会うことができ、通良の学校衛生構想などについて、少しずつご教示していただいている。深く御礼申し上げたい。
また、通良の私生活を知ることができる資料はきわめて少ない。したがって、今後の筆者の課題は、学校保健史についての学習と、通良の生涯に関する資料の発掘である。
(注1)杉浦守邦氏が『学校保健研究』に連載した「三島通良」の11回目〔杉浦守邦「三島通良」(11)、『学校保健研究』12(1)、1970年〕から、サブタイトルとして登場するのが「わが国学校衛生の創始者」というフレーズである。
(注2)残念なことに、『学校保健研究』に連載された杉浦守邦氏の「三島通良」は、通良の前半生で終了してしまい、後半生については記述されていない。連載17回目までに前半生が詳しく記述されるのであるが、18回目に「三島通良(附学校衛生)関係年表」が掲載されて、唐突に連載が終了してしまうのである。それでも、これほどまとまった三島通良についての評伝はほかにはなく、杉浦氏の「三島通良」は三島通良研究のバイブルといえるだろう。
なお、連載の終了について、故・杉浦氏は『学校保健50年』p.236で次のように語っている。
三島について分かったこと、特に初期の論文や演説要旨に見る彼の意見を、「わが国学校衛生の創始者 三島通良」と題して学校保健研究誌の97号(昭和43.2)から18回にわたって連載した。その後、別刷を製本して「三島通良(上)」という一冊の図書として、関係者に贈呈したが、内容は明治28年、平山千代との結婚の段で終わっている。いよいよ明治29年文部省学校衛生主事に任官し、次々と新しい施策を実行に移して、彼の本領を発揮して行く時代のことには触れていないのが心残りである。途中で挫折のままである。いつかは再開して完成したいと思っているが、心許ない次第である。
(注3)筆者が三島通良と「出会った」のは、川越の人物誌編集委員会編『川越の人物誌 第2集』に掲載されていた西川青柳子「三島通良」である。この文章は同人誌『武蔵野ペン』に「学校衛生の父 三島通良」として掲載されていたものの再掲である。
なお、青柳子は雅号であり、本名は滇八である。故・西川滇八氏(1921-89)は川越出身で、1941(昭和16)年に東京帝国大学医学部に進んだ。卒業後は公衆衛生学を専門とし、原稿執筆当時は日本大学医学部教授であった。西川氏は『武蔵野ペン』に埼玉県出身の医学の先駆者を紹介する原稿を度々発表していた。連載「武蔵野に育まれた国手」では、三島通良の他に雨宮春潭と田口和美を紹介している。『武蔵野ペン』は埼玉県川越市周辺の文芸愛好家でつくる川越ペンクラブが編集・発行する季刊の文芸同人誌である。
通良についての西川氏の記述が残されているのは、次の資料である。
・西川青柳子「学校衛生の父 三島通良」、『武蔵野ペン』第26号、1981年、p.9
・西川滇八「人と業績《21》 三島通良 1865-1925年」、『公衆衛生』第46巻第3号、医学書院、1982年、p.(69)213~p.(71)215
・西川青柳子「三島通良」、川越の人物誌編集委員会編『川越の人物誌 第2集』、川越市教育委員会、1986年、p.117~p.119。『武蔵野ペン』第26号の西川青柳子「学校衛生の父 三島通良」を転載したものであるが、加えて通良が作詞をした「衛生唱歌」が紹介されている。
第1章 三島通良の生涯(概略)
1 笠幡時代
三島通良は1866(慶応2)年6月6日に、武蔵國高麗郡笠幡村で生まれた。実家は玉野山高麗寺大泉院(以下「大泉院」)という修験道の寺院であったが、1868(明治元)年に政府によって神仏が分離され、さらに1872(明治5)年に修験道が廃止されると、一家は東京へ移住することになった。三島一家はいつ笠幡を後にしたのか。杉浦守邦氏の聞き取りによると、通良は「明治8年すなわち10才頃まで、笠幡にいたらしい」(注1)とされるが、正確なことはわからない。上京した後、父・通卿は蘭学を学んで東京で医師を開業したが、ほどなく廃業して、後に役人になったという(注2)。その後通良が笠幡に戻ってくることはなく、彼は東京で暮らしていくことになる。
(注1)杉浦守邦「三島通良」(1)、『学校保健研究』10(2)、1968年、p.75
(注2)三島通良「月費僅に五十銭 医学博士 三島通良君」、河野二郎編『名士の学生時代』、岩陽堂書店、1915年、p.279~p.280
通良の小学校時代の記録は見つかっていない。笠幡村では、1874(明治7)年に笠幡小学校が開校しているので、そこに通っていたと推察される。その後、一家で東京へ移ったが、転居先でどこの小学校へ転校したのかはわかっていない。そもそも、1880(明治13)年に麹町区飯田町(現・千代田区飯田橋)に転居するまで、東京のどこに住んでいたのかわからないのである。
通良は小学校に満11才まで通ってから、1877(明治10年)に私立の訓蒙学舎という語学学校に入った(注1)。ドイツ語を修得して、東京大学医学部で医学を学ぶための第一歩として、訓蒙学舎へ入学したのである(注2)。通良はここで、ドイツ語の初歩を学んだ。
通良が訓蒙学舎に在学していたのは1年ばかりで、翌年、官立の東京外国語学校へ入学した。東京外国語学校へ入るためには試験があったが、通良はそれを通過することができた。通良は東京外国語学校でも、ドイツ語などの語学や漢学を学んだ。この頃の通良は漢学は得意であったが、ドイツ語では苦戦していた。通良にとって、東京外国語学校はあくまでもドイツ語を修得するための場であった。そして、在学1年にして東京外国語学校を後にすることになる(注3)。難関の入試を突破して、東京大学医学部予科に合格したからである(注4)。
1879(明治12)年、通良は東京大学医学部予科(1882年に東京大学予備門に改称)に入学する。医学を学ぶ道を歩み始めたのである。通良の時代には、予科(東京大学医学部予科)が5年間、本科(東京大学医学部)が5年間、計10年間かけて医師を養成するカリキュラムであった。通良は勉学に励み、苦手だったドイツ語も徐々に上達していく。だが、東京大学医学部予科在学中に父・通卿が病死する。一家を支えていた父の収入がなくなったため、通良は苦学生となった。しばらくは初歩のドイツ語塾を開くなどして糊口をしのいだ(注5)。
1884(明治17)年、通良は東京大学予備門を卒業し、東京大学医学部(1886年に帝国大学医科大学に改称)に入学した。このとき、医学科で学ぶための学費を得るために、通良は笠幡村の地所と森林を手放して資金をつくろうとしたが、仲買人にだまされて手元にはいくらも残らなかったという(注6)。だが、この頃までにはドイツ語がかなり上達していた通良は、文部省等から依頼された医学書の翻訳、東京大学の教師であったドイツ人のベルツやスクリバの講演や講義の通訳を行って収入を得ていた(注7)。しかし、やはり生活は苦しかった。
1889(明治22)年、通良は『はゝのつとめ』を発行する。出産と育児の指南書である(注8)。この本はベルツから学んだことに加えて、ドイツと日本の産科学や小児科学の本を参考して書かれた、日本で最初の近代医学に基づいた育児書であった。同書は1908(明治41)年までに22版まで増刷されて、約4万冊が発行された(注9)。通良はその印税を学費にあてることができるようになり、家計はようやく一息つける状態になった。その翌年、通良は帝国大学医科大学医学科を卒業し、医術開業免許を取得した。
(注1)井関九郎監修『大日本博士録 第弐巻 医学博士之部(其之壹)』、発展社、1922年、p.49
(注2)三島通良「月費僅に五十銭 医学博士 三島通良君」、『名士の学生時代』、p.277には以下のような記述があり、通良は早くから医師をめざしていたことがわかる。
私は大学の医科へ入る心算〔つもり〕であつたから、何時迄〔まで〕も恁〔こん〕な私立学校に居ても仕方がないと思つたので、訓蒙学舎は一年許りで止めて外国語学校へ入った。
(注3)三島通良「月費僅に五十銭 医学博士 三島通良君」、『名士の学生時代』、p.276~p.277
(注4)岡田和一郎先生傳記刊行會編『岡田和一郎先生傳』、日本医事新報社、1942年、p.20によると、岡田和一郎は、通良の1年後に東京大学医学部予科の入試を受験したが、その倍率は約5倍であった。
(注5)三島通良「月費僅に五十銭 医学博士 三島通良君」、『名士の学生時代』、p.280~p.281
(注6)杉浦守邦「三島通良」(1)、『学校保健研究』10(2)、p.75
(注7)杉浦守邦「三島通良」(1)、『学校保健研究』10(2)、p.75
(注8)『はゝのつとめ』には、妊娠と出産について記された「親の巻」と、育児についての指南書「子の巻」の2巻がある。
(注9)杉浦守邦「三島通良」(1)、『学校保健研究』10(2)、p.76
通良は『はゝのつとめ』の収入を学資にして、1890(明治23)年に帝国大学大学院に入学した。研究テーマに選んだのは「小児科学 日本健体小児の発育論」であり、小児科教室で研究に従事することになった(注1)。そしてその選択が思わぬ結果をもたらす。翌1891(明治24)年、通良は文部省から学校衛生事項取調嘱託を委嘱されたのである。文部省では、学校衛生の不備を解消することが急務である、と認識されるようになっていた。この頃、大日本私立衛生会や国家医学会などで、学校衛生の重要性が繰り返し説かれていたのである(注2)。そのため、文部省は医学的見地から学校衛生を確立する必要があると考え、大学院で小児科学の研究をしていた通良に白羽の矢が立ったのである。
通良が学校衛生事項取調嘱託となったことにより、日本の学校保健の歴史がはじまる。「本邦の学校衛生は実に三島博士の手によりて創めて開拓された」(注3)のである。
学校衛生事項取調嘱託となった通良は日本中を飛び回って子どもたちの身体を測定するとともに、学校建築を観察する。1891(明治24)年に九州地方、1892(明治25)年に奥羽地方、1894(明治27)年に四国・中国地方と神奈川県、1895(明治28)年に丹波・丹後・但馬地方、1896(明治29)年に栃木県と神奈川県、1898(明治31)年に京都府と大阪府、1899(明治32)年に山形県と四国地方、1900(明治33)年に岩手県に出張している(注4)。通良は「秤量カンカント物差トヲ以テ全國ヲ廻ツタ」(注5)のであり、「総数1万5千名の学童の測定を自ら実施した」(注6)。
そこで明らかになったのは、発足間もない日本の学校には、学校衛生がまったく整っていない実態であった。このままでは、子どもたちが健康に学校生活を送ることはできない、という思いを通良は強くしていく。
通良は1893(明治26)年に『学校衛生学』を発刊した(注7)。わが国最初の本格的な学校衛生学の専門書で、ドイツの学校衛生学の基礎の上に立って、日本における問題点とその対策を具体的に示した通良の主著である。さらに、通良は自分が見た学校現場の実態を文部省に報告して、学校衛生確立の必要性を提言していく。このときに書かれた報告書は、1895(明治28)年に『学校衛生事項取調復命書摘要』(注8)として刊行されている。
それに先立つ1892(明治25)年、通良は京橋区南鍋町(現・中央区銀座)に小児科医院を開設している。大学院への在学は継続したが、2年間の大学院在学期間は満期となっていた。通良は、小児科医としての技術を磨く必要があったことと、生計のために資金が必要であったために医院を開いたのである(注9)。また、同時に帝国痘苗院を設置した。前年から東京では天然痘が流行していたが、帝国痘苗院で種痘を行ったのである。通良はそれまでの種痘法の欠陥を改善した「三島式種痘法」を発明し、帝国痘苗院で実践した(注10)。通良の妹・としは、このとき帝国痘苗院を通良とともに運営した医師・沼野孝太郎と結婚することになる。
1895(明治28)年には嘉納治五郎に委嘱されて、高等師範学校で学校衛生の講義を行うようになり、翌96(明治29)年には高等師範学校教授となる(注11)。
プライベートでは、1895(明治28)年に通良は結婚した。29歳のときである。相手は秋田県知事・平山靖彦の次女・平山千代であった(注12)。1897(明治30)年には長女・二三子が生まれる。
1896(明治29)年、『日本健体小児ノ発育論』が審査を通り、通良は医学博士となった。大学院を修了した通良は、文部省学校衛生主事に任官することになる。正式に文部省の職員に採用されたのである。そして、1898(明治31)年には学校衛生顧問会議主事に任官する。顧問会議は文部省に対して学校衛生に関するさまざまな提言をしていくための組織であった。メンバーは当時の医学界の重鎮が顔をそろえていた(注13)。通良は顧問会議主事であり、事務方として事実上、顧問会議を切り盛りしていった。顧問会議では、1896(明治29)年に「学齢未満の者の就学禁止の通達」、1897(明治30)年に「学校衛生方法」、「学校・生徒身体検査規程」、そして1898(明治31)年には「公立学校に学校医を置く」という勅令が公布される。学校医制度は、顧問会議の提言で実現に向けて歩み出すことになった。顧問会議における通良の活躍によって、日本の保健衛生制度の骨格が一応の確立をみるのである(注14)。1900(明治33)年、通良は文部省大臣官房学校衛生課長にも命じられた。翌1901(明治34)年には、東京帝国大学医科大学講師も嘱託されている。この頃が通良のキャリアの絶頂期であった。
また、1891(明治24)年に文部省の学校衛生事項取調嘱託に命じられて以来、通良は大日本私立衛生会、国家医学会、小児科学会等で、学校衛生についての精力的に講演を行っている。そして『大日本私立衛生会雑誌』、『国家医学会雑誌』等に寄稿して、学校衛生に関する見解を発表している。私たちが通良の学校衛生についての考えを知ることができるのは、講演会の記録や雑誌に寄稿した文章が数多く残っているためである。
(注1)杉浦守邦「三島通良」(1)、『学校保健研究』10(2)、p.77
(注2)杉浦守邦「三島通良」(1)、『学校保健研究』10(2)、p.77~p.78
(注3)本圖晴之助「学校衛生の過去現在 学校衛生研究会の創立運動を聞いて」、『日本学校衛生』8(12)、1920年、p.640
(注4)各地方での、通良の出張の記録は以下のとおり。
・九州地方については、三島通良『学校衛生取調復命書摘要』、博文館、1895年、p.1~p.45とp.120~p.147、および杉浦守邦「三島通良」(2)、『学校保健研究』10(12)、1968年、p.591~p.596。
・奥羽地方については、三島通良『学校衛生取調復命書摘要』p.46~p.87とp.148~p.172、および杉浦守邦「三島通良」(6)、『学校保健研究』11(5)、1969年、p.238~p.244、p.220。
・四国・中国地方については、三島通良『学校衛生取調復命書摘要』p.88~p.119とp.173~p.200、および杉浦守邦「三島通良」(10)、『学校保健研究』11(12)、1969年、p.575~p.580、p.557。
・神奈川県については、「三島通良」(11)、『学校保健研究』12(1)、1970年、p.35~p.40。
・丹波・丹後・但馬地方については、「三島通良」(15)、『学校保健研究』12(9)、1970年、p.447に記述されている。
それ以外の出張については、三島通良『学校衛生取調復命書摘要』および杉浦守邦「三島通良」には記述されていない。
(注5)石原喜久太郎『石原学校衛生』、吐鳳堂書店、1920年、p.57
(注6)杉浦守邦『学校保健50年』p.236
(注7)三島通良『学校衛生学』、博文館、1893年
(注8)三島通良『学校衛生取調復命書摘要』、博文館、1895年
(注9)杉浦守邦「三島通良」(4)、『学校保健研究』11(3)、1969年、p.143
(注10)杉浦守邦「三島通良」(4)、『学校保健研究』11(3)p.143~p.148および杉浦守邦「三島通良」(5)、『学校保健研究』11(4)、1969年、p.187~p.194
(注11)杉浦守邦「三島通良」(15)、『学校保健研究』12(9)、1970年、p.441~p.444
(注12)杉浦守邦「三島通良」(16)、『学校保健研究』12(10)、1970年、p.495~p.497
(注13)近藤真庸「学校衛生顧問会議の研究(1)」、『中京女子大学紀要』第20号、1986年、p.43~p.44
なお、学校に関わることであるのに、教育界からは顧問会議のメンバーは選ばれなかった。このことが後の「教育家と衛生家の衝突」の原因になった。「教育家と衛生家の衝突」とは、次のような問題である。小学生の体育の授業に撃剣を課すか否かをめぐる論争において、通良は小学生に撃剣を課すべきではない、と断言する。そしてこの問題は「純粋なる体育問題」なので、衛生学者が検討すべきであり、教育者が口を出すべきではない、と主張した。これが教育界の反発を生むとともに、顧問会議内部でも通良のやや強引な議論のすすめ方に異論が噴き出し、顧問会議内も混乱した。通良に対する風当たりは強く、このことが後に通良が文部省から更迭される遠因になったかもしれない、と筆者は考えている。
この「教育家と衛生家の衝突」については、鈴木敏夫「教育家と衛生家との衝突 『学校衛生顧問会』と武術の学校正科編入問題」、『北海道大學教育學部紀要』第54号、1990年でも取り上げられている。
(注14)近藤真庸「学校衛生顧問会議の研究(1)」、『中京女子大学紀要』第20号、p.44
1903(明治36)年、通良は学校衛生を研究するために、文部省からドイツ、イギリス、フランスへの留学を命じられた(注1)。通良は勇んで旅立っていったことだろう。念願のヨーロッパ留学が実現したのだから。通良は2年間の留学中に、ベルリン大学で講義を受けただけではなく、オーストリア、ハンガリー、ドイツ、スイス、デンマーク、スウェーデン、ベルギー、フランス、イギリスおよび北米をまわって、学校衛生、公衆衛生、体育法、児童保養法などを学んだ(注2)。ところが、である。留学中に突然、顧問会議が廃止となる。さらに学校衛生課もなくなり、通良は退職扱いとなる。
なぜ通良は文部省から更迭されたのか。顧問会議と学校衛生課の廃止は、日露戦争直前の日本では軍備増強が優先されて、教育予算が削減されたためである(注3)。子どもたちの健康よりも軍事が優先され、「行政整理の美名の下」(注4)に、通良が築き上げてきたものが廃止されたのである。
だが通良が失脚した原因は、それだけではないかもしれない。小学生にトラホームが大流行した際に、その対策が求められたにもかかわらず、治療は家庭の問題として原則的な態度に終始した顧問会議、つまり通良に対して、教育界から大きな批判が上がった。文部省はその批判をかわすために、顧問会議を切り捨てた。そして、顧問会議を事実上主導していた通良は追放された、という推理も成り立つのではないか(注5)。いずれにしても、すべては通良の留学中に行われたのである。
こうして唐突に、通良の学校衛生確立への挑戦は終焉を迎えることになった。37歳のときのことである。通良個人はもとより、ようやく歩みはじめた日本の学校衛生そのものも「冬の時代」を迎えたのである。
不幸なことは重なる。貧しく、苦しい時代に通良を支えてくれた母・ふきが渡欧中に亡くなったのである。通良の帰国は、母の死後のことである。
帰国した通良は高等師範学校も辞し、1905(明治38)年に麹町区内幸町(現・千代田区内幸町)に三島病院を開設する。小児科の医院であった。三島病院は「ドイツ帰りの最新医として評判が高かった」という(注6)。同年には、広島高等師範学校の講師を嘱託されている。広島の仕事を引き受けたのは、妻・千代を同行させて里帰りをさせる目的もあったと推察される。この頃の通良は以前と変わらず、大日本私立衛生会などで講演を行ったり、『大日本私立衛生会雑誌』や『日本衛生会雑誌』に寄稿したりしている。野に下ったとはいえ、学校衛生に関心を失ったわけではなかった。
ところが1907(明治40)年、通良は突如としてイエロージャーナリズムによる攻撃を受けることになる。『平民新聞』が「妖婦 下田歌子」という連載をはじめて、真偽のほどはわからないが、通良も下田歌子の元交際相手だったという記事が執拗に掲載されたのである(注7)。
翌1908(明治41)年に、通良は2年後にパリ開催される第3回万国学校衛生会議の日本代表に指名されている。そもそも、通良は万国学校衛生会議の永久委員会(常設)本部理事であり、日本事務局は三島医院内に置かれていた(注8)。官職からは退いたとはいえ、通良は日本の学校衛生界の重鎮であった。
しかし1911(明治44)年の春、通良は「重い脳神経衰弱症に罹患」してしまう(注9)。開業医を続けることは困難になり、医院を廃業する。そして「神経衰弱ノ爲ニ学界カラ隠居」(注10)するのである。
その後は赤坂区青山高樹町(現・港区南青山)、さらに豊多摩郡落合村下落合(現・新宿区下落合)へと転居して、静養に努めた。1912(大正元)年に大日本学校衛生協会の副会長に就任しているが、これは名誉職といってよいものであった。1915(大正4)年には広島高等師範学校の講師も辞している。謡を習ったり、バラの栽培を行ったりして、静かに時を過ごしたようである(注11)。通良は医業から遠ざかって以来、名刺などにも決して医学博士の学位を用いることをせず、「静堂」という雅号を称していたという(注12)。
(注1)井関九郎監修『大日本博士録 第弐巻 医学博士之部(其之壹)』p.49
(注2)井関九郎監修『大日本博士録 第弐巻 医学博士之部(其之壹)』p.49
(注3)森本稔「明治期の学校衛生 学校衛生関係諸制度の設置とその経過について」、『天理大学学報』第139号、天理大学、1983年、p.21~p.23
(注4)本圖晴之助「学校衛生の過去現在 学校衛生研究会の創立運動を聞いて」、『日本学校衛生』8(12)、p.641
(注5)学校衛生顧問会議と学校衛生課の廃止について、近藤真庸氏は次のように推察している。(近藤真庸『養護教諭成立史の研究―養護教諭とは何かを求めて―』p.52)
・三島学校衛生論への教育界の不満の表明が反動となって、“制度的後退”状況を生み出していったのではないか。
(注6)杉浦守邦『学校保健50年』p.234。1966(昭和41)年に杉浦守邦氏が行った、通良の長女・三島二三子氏からの聞き取りによる。
(注7)解説・山本博雄『妖婦 下田歌子』、風媒社、1999年、p.16~p.17、p.61~p.105
それまで日露戦争に反対する非戦論を主張していた『萬朝報』が開戦論へ傾いたため、1903(明治36)年に、同紙の記者だった幸徳秋水と堺利彦が、非戦論の主張を貫くために発行したのが『平民新聞』である。だが、『平民新聞』は発行部数を伸ばすために、イエロージャーナリズムの側面ももっていた。「人民の敵」である上流階級とみなされた下田歌子が標的とされ、通良もそれに巻き込まれたのである。
ただし近年、この『平民新聞』の記事については「品位を欠いた、根拠のあいまいな暴露記事」であり(小山静子「一九〇〇年代の女性バッシング―下田歌子と女学生」)、その本質は女性へのバッシングであり、かつセクハラである、という認識が広がりつつある。詳しくは、以下の論文を参照してもらいたい。
・小山静子「一九〇〇年代の女性バッシング―下田歌子と女学生」、『実践女子大学下田歌子記念女性総合研究所 年報』第7号、2021年、p.〔71〕74~p.〔86〕59
・広井多鶴子「下田歌子を捉え直す―下田の『家政学』を通して―」、『実践女子大学下田歌子記念女性総合研究所 年報』第8号、2022年、p.27~p.36
なお、『平民新聞』による下田歌子に対するスキャンダル記事を題材にした小説が、林真理子『ミカドの淑女』、新潮社、1990年である。この小説には通良も登場するが、まるで道化のように描かれている。
(注8)『医事新聞』、医事新聞社、1908年9月10日付、p.1356~p.1358
(注9)杉浦守邦「三島通良」(18)、『学校保健研究』12(12)、1970年、p.588
ただし「重い脳神経衰弱症に罹患」したのは、杉浦守邦「三島通良」(18)では1910(明治43)年春となっている。三島通良「嗚呼別琉都先生」、『日本学校衛生』1(7)、1913年、p.3には「明治四十三年ノ春以来余ハ不幸ニシテ重キ脳神経衰弱症ニ悩マサレテ」とあることから、杉浦氏はこの記述をもとに年表を作成したと思われる。だが、通良がその後に記した、三島通良「学校医諸君ト語ラン」、『日本学校衛生』7(4)、大日本学校衛生協会、1919年、p.187では、「明治四十四年以来神経衰弱ノ爲」と記されている。また、井関九郎監修『大日本博士録 第弐巻 医学博士之部(其之壹)』p.49でも「四十四年五月」とあり、三島医院を廃業した時期を勘案すると、「重い脳神経衰弱症に罹患」したのは、1911(明治44)年が正しいと思われる。
(注10)三島通良「学校医諸君ト語ラン」、『日本学校衛生』7(4)、1919年、p.187
(注11)三島通良「学校医諸君ト語ラン」、『日本学校衛生』7(4)、p.187
(注12)本圖晴之助「従五位医学博士三島通良先生を弔す」、『日本学校衛生』13(4)、1925年、p.(5)241
なお、井関九郎監修『大日本博士録 第弐巻 医学博士之部(其之壹)』p.50には、「静堂」という雅号は、もともと三条実美が香川敬三に与えたものであったが、通良はそれを譲り受けたと記されている。しかし、『国史大辞典』によると、三条実美の雅号は梨堂、香川敬三の雅号は東洲である。
5 晩年
静養生活を送っていた通良だが、その間に歴史学や考古学に対する興味は高まっていた。特に伊豆国(現・静岡県)の歴史に深い興味を持ち、1917(大正6)年から1920(大正9)年にかけて、『國學院雑誌』に歴史研究の論文を発表している(注1)。また、駿東郡沼津町(現・沼津市)などで考古学の発掘調査も行っている(注2)。通良の関心事は、田方郡三島町(現・三島市)にある三嶋大社の主祭神についてであった。三島家のルーツを大三島の大山祇〔おおやまづみ〕神社や三嶋大社に求めていた通良にとって、この問題は決して他人事ではなかった。
三嶋大社の主祭神は、江戸時代後期の国学者・平田篤胤の影響で、明治初期に大山祇命〔おおやまつみのみこと〕から事代主命〔ことしろぬしのみこと〕に変更されていた。これに対して、通良は『國學院雑誌』に論文を掲載して、大山祇命に戻すように主張したのである(注3)。通良の生前、この主張が実現することはなかった。だが通良の死から22年後に、大山祇命は三嶋大社の主祭神に復活する。事代主命と大山祇命の二神が三嶋大社の主祭神になったのである。この復活劇において、通良が果たした役割は決して小さいものではなかった。
通良の活動はそれだけではない。1917(大正6)年、沢柳政太郎が成城小学校を創設する。成城小学校は大正自由教育の拠点校として知られる。校長だった沢柳は、通良を顧問兼学校医(翌年から亡くなるまでは顧問専任)として迎え入れるのである(注4)。顧問および学校医としての通良の活動はつまびらかではない。ただ、かつて文部省に同時期に勤務していた沢柳が、通良の学校衛生についての思想に大きな影響を受けていたことはまちがいない。
1920(大正9)年、通良は東京大学工学部の学生であった喜住〔きずみ〕徳七を娘・二三子の婿養子として迎えた。三島徳七は後にMK鋼を発明して、文化勲章を受章する。MK鋼は磁石の世界に革命的な変化をもたらすのである。徳七は、研究に打ち込むことに理解を示してくれる通良に感謝している(注5)。翌年以降には3人の孫も生まれ、私生活では幸せな日々を送ったのではないかと思われる。
1925(大正14)年1月、通良は脳溢血を起こして倒れ、3月9日に自宅で没した。享年58であった。遺骨は上野の寛永寺に預けられ、翌年に多摩霊園に埋葬された。
(注1)通良は、3本の論文を『國學院雑誌』に発表している。
・三島通良「二十二社本縁に就て」、『國學院雑誌』23(12)(282)、1917年、p.52~p.65
・三島通良「二十二社本縁に就て(其二)」、『國學院雑誌』24(1)(283)、1918年、p.37~p.48
・三島通良「豆相地方の子の神と來の宮 附、白濱神社祭神考」、『國學院雑誌』26(2)(306)、1920年、p.1~p.20
(注2)沼津市のHP(https://www.city.numazu.shizuoka.jp/shisei/profile/bunkazai/toukai/hiyosi.htm)には、奈良時代から平安時代初期にかけて存続した「日吉廃寺跡(ひよしはいじあと)」を、通良が歴史学者の柴田常恵とともに発掘したことが紹介されている。
大正6年(1917年)の丹那トンネル開通に伴う東海道熱海線敷設の際に、柴田常恵・三島通良の両氏によって塔址の調査が実施されている。
(注3)「二十二社本縁に就て」、『國學院雑誌』23(12)(282)および「二十二社本縁に就て(其二)」、『國學院雑誌』24(1)(283)において通良が発表した研究成果は、現在の歴史学において、そのすべてが受け入れられているわけではない。
白山芳太郎『北畠親房の研究』、ぺりかん社、1991年、p.103~p.119およびp.223~225では、通良の研究の妥当なところと、曲解しているところが解説されている。
三嶋大社の主祭神が明治初めに大山祇命から事代主命に変更された根拠を通良は批判していた。白山芳太郎氏は、主祭神の変更の根拠については、通良の主張に理があるという見解を示している。
(注4)近藤真庸「学校衛生顧問会議の研究」(4)、『中京女子大学紀要』第23号、1989年、p.99~p.103
(注5)三島徳七「私の履歴書」、日本経済新聞社編『私の履歴書 文化人16』、日本経済新聞社、1984年、p.37には、次のような記述がある。
こうして結婚はしたけれども、私は新婚旅行にも行かず、その翌朝から実験室に閉じこもった。そんな私を、新しい父は笑って見守ってくれた。自分が学者だけに、学問研究には理解があったのである。それには生活が安定したこともあって、私はなんの心配もなく研究に没頭できた。私はその後、東大の助教授時代も月給は研究費に振り向けて、家に持ち帰ったことがない。
(1)通良がつくった墓碑
川越市笠幡に三島家代々の祖先を祀った墓碑がある。三㠀氏累世塋域碑(注1)である(写真)。この碑を建てたとき、通良は30代半ばであった(注2)。10才の頃に笠幡を離れて以来、通良は東京で暮らしていた。だが、文部省の命によりヨーロッパへ派遣される際に、三島家の家系に関する記録が失われてしまうのを恐れて、通良は故郷の笠幡にある三島家の墓所に墓碑をつくったのある。
三㠀氏累世塋域碑は、表面と裏面の両面に文字が刻まれている。表面は三島家が笠幡の地に移住してきて以来の18人の祖先の名が刻まれている。十八世・通卿が通良の父である。裏面は漢学の素養があった通良らしく、漢文で三島家の歴史が記されている。
三㠀氏累世塋域碑については、これまでも墓碑に刻まれた文字やその内容について、霞ヶ関郷土会編『霞ヶ関の歴史』(注3)、新井博「修験三島氏の墓碑」、『川越の歴史散歩(霞ケ関・名細編)』(注4)、および霞ケ関郷土史研究会編『霞ケ関の史誌』(注5)などで言及されてきた。
だが、これらの郷土史家による記述は、三㠀氏累世塋域碑の内容について詳しく分析したものではなかった。本稿では、三㠀氏累世塋域碑の内容について、丁寧に検討してみたいと思う。
(注1)「塋域」とは、代々の墓という意味である。
また、この墓碑では、三島は「三㠀」と記されている。さらに出版された書籍などでは「三嶌通良」と記されたものが多いが、本稿では「三島」と記述する。
(注2)墓碑には「明治三十五年六月」という作成時期刻まれている。杉浦守邦「三島通良(18)」、『学校保健研究』12(12)、1970年、p.587には、碑を建てたのは1902(明治35)年の秋であり、「完成は三島欧州留学中」と記されている。したがって、碑の完成は三島の留学期間、1903(明治36)年3月から1904(明治37)年6月の間である。
(注3)霞ヶ関郷土会編『霞ヶ関の歴史』、1962年、p.50
(注4)新井博「修験三島氏の墓碑」、『川越の歴史散歩(霞ケ関・名細編)』、1982年、p.51~p.52
同書p.50の「笠幡東部案内図」には「三島氏の墓碑」として、三㠀氏累世塋域碑の場所が示されている。三㠀氏累世塋域碑は川北運動公園の近くにある。墓碑の入口には「三島家墓地 この土地は三島家祖先の眠る神聖な聖域です 無用の者の立入禁止 管理責任者 三島良直」と書かれた立て札がある。三島良直氏は通良のひ孫にあたる方である。
(注5)霞ケ関郷土史研究会編『霞ケ関の史誌』、1990年、p.210~p.211。内容は『霞ヶ関の歴史』とほぼ同じである。
〔表面〕
三㠀氏累世塋域碑
初世高量 二世秀寛 三世良慈 四世良隆 五世良歡 六世永純 七世良永 八世良海 九世良慶 十世賢永 十一世良宥 十二世良信 十三世良益 十四世良賢 十五世良榮 十六世良順 十七世泰然 十八世通卿
〔裏面〕
吾家系出於正四位下鎮守府将軍源賴義賴義爲伊豫守第四子親清生于任國稱三島四郎親清裔上総介朝清移居伊豆三島其子山城椽義清祝髮号高量康永三年移于武蔵國高麗郡三芳野里今之入間郡霞關邨是也興田産開基業因推爲始祖子孫相繼及于通良十九世矣高量君以下皆葬于此里墳墓累累相望別無碑碣而通良移住東京恐後世或失其処因建石以表之云
明治三十五年六月
正六位醫学博士三島通良 謹誌
〔現代語訳〕
わが家系は正四位下鎮守府将軍源頼義から出ている。伊予守頼義の第四子親清は任国において生まれ、三島四郎親清と称した。(親清の)子孫の上総介朝清は伊豆の三島へ転居した。その子、山城掾義清〔椽は垂木の意。掾の誤記と思われる〕は出家して高量と号し、1344(康永3)年に武蔵國高麗郡三芳野里、現在の入間郡霞ケ関村に移った。それが当地である。始祖高量とその子孫たちは、代々田を開き、産業を興す基となったと推察され、十九世通良まで行きついた。高量様以降の先祖の方々はこの里の墳墓に、代々隣り合って、石碑もなく葬られてきた。(私)通良が東京に移住して、(三島家の歴史が)後世失われてしまうかもしれないので、この言い伝えを表す石碑を建てた。
注)諸国の地方官には、守〔かみ〕、介〔すけ〕、掾〔じょう〕、目〔さかん〕の4等官があった。したがって、伊予守は伊予国(現・愛媛県)の1等官、上総介は上総国(現・千葉県)の2等官、山城掾は山城国(現・京都府)の3等官にあたる。ただし、上総国は親王(天皇の嫡子・嫡孫)が太守を務める親王任国であったため、実務上の最高位は介であり、介が受領の地位に就いた。
三㠀氏累世塋域碑の裏面には、三島家の由緒来歴が記されている。その内容を検証してしていきたい。
ア)三島家と清和源氏
「吾家系出於正四位下鎮守府将軍源賴義 賴義爲伊豫守第四子親清生于任國稱三島四郎親清」の解釈
碑文の冒頭には「吾家系出於正四位下鎮守府将軍源賴義」と書かれている。三島家は源頼義(988-1075)の子孫だと記されている。源頼義は頼朝の祖先である。系図にすると、
頼義―義家―為義―義朝―頼朝
となる。
頼義は1053(天喜元)年に、朝廷から鎮守府将軍に任じられた。鎮守府将軍とは、陸奥国に置かれた独立軍政府である鎮守府の長官であり、平安時代中期以降は「武名の高い国守が将軍を兼ねて、兵名をあげることが多かった」(注1)。
続いて「賴義爲伊豫守第四子親清生于任國稱三島四郎親清」と記されている。頼義が伊予守となり、任地で四男が生まれ、三島四郎親清と称したというのである。「射芸の達人として知られていた頼義」(注2)は、前九年の役(1051―1062)で功績を上げ、その恩賞として正四位下伊予守に任じられた。このとき、頼義はすでに70代半ばである。この時代、伊予国(現・愛媛県)は播磨国(現・兵庫県)と並ぶ受領の最高峰であったという(注3)。だが、頼義は伊予に赴任せず、都に留まった。一族の郎等たちへの恩賞が十分ではなく、朝廷と交渉するためである。「この間、恩賞問題などに追われた頼義が、伊予国に足を運んだとは考えがたい」という(注4)。
頼義は平直方の娘との間に男子を3人儲けている。義家、義綱、義光である。また、母は不明であるが僧・快誉という男子もいた(注5)。これらは当時の歴史や家系を記録した『尊卑文脈』と『陸奥話記』で確認できる。だが、親清という「第四子」は、これらの史料には記されていない。
親清が登場する書物は『予章記』である。『予章記』は「伊予河野氏の由緒来歴を記した書」(注6)である。河野氏は伊予国を地盤とし、西国にありながら鎌倉幕府の御家人となり、その後、室町時代から戦国時代にかけて伊予国の覇権を争った一族である。
『予章記』において、親清は次のように記されている(注7)。なお、源頼義は晩年に出家したので、「伊予入道頼義」と呼ばれた。
親孝ノ子親経〈河野新大夫、又氏長者ト云〉。此比清和源氏(ノ)正統(ニ)伊予入道頼義、当時ノ国司トシテ在国アリ。親経ト同志ニテ、国中ニ四十九ヶ処之薬師堂、八ヶ所八幡宮建立セラル。毎事知己ナリ。
親経ニハ女子一人計ニテ相続ノ者ナキ故ニ、頼義(ノ)末子ヲ聟ニ取、家ヲ令続。頼義ノ子四人アリ。嫡子ハ八幡太郎義家、源氏之正統任陸奥守、其子六条判官為義、其子義朝、其子頼朝等是也。次男賀茂次郎。三男新羅三郎義光、甲斐源氏(ノ)元祖也。四男三島四郎親清ト号ス。家ヲ継テ河野冠者伊予権介ト名ク。故ニ頼義ヨリ依契約、赤地錦鎧直垂・白旗等相伝ス。平治二年、後白河院ノ院宣ヲ承テ、任伊予国々務職。
伊予国の河野家には跡取りがいなかったので、娘がいた河野親経は頼義の末子を婿に取ったこと、末子とは頼義の四男、三島四郎親清であったことなどが記述されている。
しかし現在の歴史学では、源頼義の子が伊予の河野氏に婿に入ったという記述は「もとより虚構と見られることは言うまでもない」(注8)とされている。「義家・義綱(賀茂次郎)・義光の三者は諸系図に確認できるが、『親清』は不明。架空の人物であろう」(注9)というのが、伊予の歴史を明らかにしようとしている研究者たちの見解である。
なお、三㠀氏累世塋域碑には大三島という地名は登場しないが、杉浦守邦氏はその後に得た知識も加えて、次のように記述している(注10)。
(前略)彼の先祖は伊予の国大三島の出身であるという。そこで後年松山で日本学校保健学会があったとき行ってみた。大山祇神社という立派な神社があったが、彼はここの神職の末裔らしい。
彼とは通良のことである。大山祇〔おおやまづみ〕神社については後述するが、通良は自らのルーツを伊予国にあると考えていたことがわかる。
通良が生きていた明治期には、『予章記』の記録は歴史的事実を踏まえたものだと考えられていたと思われる。したがって通良は、自らを清和源氏の末裔である、というプライドをもって生涯を送ったと考えられるのである。
(注1)国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第九巻』、吉川弘文館、1988年、p.683
(注2)『国史大辞典 第十三巻』、1992年、p.431
(注3)元木泰雄『源頼義』、吉川弘文館、2017年、p.168
(注4)佐伯真一/山内譲 校注『伝承文学注釈叢書1 予章記』、三弥井書店、2016年、p.54
(注5)元木泰雄『源頼義』、p.191~p.196
(注6)『国史大辞典 第十四巻』、1993年、p.438
(注7)佐伯/山内 校注『伝承文学注釈叢書1 予章記』、p.53
(注8)佐伯/山内 校注『伝承文学注釈叢書1 予章記』、p.54
山内譲「『予章記』等所収文書の再検討」、『伊豫史談』235号、1979年、p.3には「予章記の記事そのままに河野氏が源氏との間に血縁的なつながりを有するという如き見解は、近年さすがに見られなくなった」とある。
なお、佐伯真一「河野氏の歴史と日本の歴史―『予章記』から考える」、『中世文学』62 巻、2017 年、 p. 36には、以下のように記されている。
(前略)一章⑯節では、平安末期の親清を源頼義の四男であったとする。頼義の子と知られる八幡太郎義家・賀茂次郎義綱・新羅三郎義光の兄弟にもう一人、「三島四郎親清」なる四男がいて、それが婿として河野家に入り、家督を継いだというわけである。もちろん、そんな人物が実際にいたとは思えない。河野家の系譜の中に源氏の血統を取り込むために創作された人物であり、八幡・賀茂・新羅の三神と三島明神を同列に並べるという意図も働いているだろう。
(注9)佐伯/山内 校注『伝承文学注釈叢書1 予章記』、p.54
(注10)杉浦守邦『学校保健50年』p.233
イ)『新編武蔵風土記稿』と三島家の祖先
「裔上総介朝清移居伊豆三島 其子山城椽[ママ]義清祝髮号高量 康永三年移于武蔵國高麗郡三芳野里今之入間郡霞關邨是也」の解釈
ここで登場する「上総介朝清」については、いろいろと手を尽くして調べたが、いまのところ、この人名が記された文献にはたどり着いていない。三島家にはこの人物の名前が伝わっていたのだと思われるが、実在していたかどうかはわからない。上総介朝清は、三島四郎親清の裔〔子孫のこと〕と記されているので、伊予の河野氏の一族が想定されるが、『予章記』にはそのような人物は登場しない。墓碑には、この上総介朝清が伊予国から伊豆国(現・静岡県)の三島へ移ったと記されている。もし、三島家の祖先が大三島の大山祇神社の神官に関係するのであれば、大山祇神社から三嶋大社へ移ったということになるだろう。
「其子」、つまり上総介朝清の子が「山城椽義清」である。この人物についても、いろいろと調べてみたが、その記録を見つけることはできていない。義清は「祝髮」して僧侶となり、高量と号したという。やがて笠幡へ移った高量の名が文書に登場するのは、『新編武蔵風土記稿』である。笠幡村の条には、次のような記述がある(注1)。
大泉院 本山修験、郡中篠井村觀音堂配下なり、本尊不動を安ず、開山高量應安五年五月化す
高量が1372(応安5)年に笠幡村に大泉院という修験道の寺院を開いて教化を始めた、という記述が残されている。三㠀氏累世塋域碑では、高量が笠幡へ移ったのは1344(康永3)年としているので、大泉院を開くまでに30年近い年月が流れていることになる。三㠀氏累世塋域碑の記述が正しいとすれば、高量はその間、何をしていたのだろうか。そのことについては、まったくわからない。大泉院は篠井村(現・狭山市)にあった笹井観音堂の配下に属する本山派の修験寺院であった。このことについては後述する。
(注1)蘆田伊人 編集校訂『大日本地誌体系⑮ 新編武蔵風土記稿 第九巻』、雄山閣、1996年、p.174
ウ)地域のリーダーだった三島家
「興田産開基業因推爲始祖子孫相繼及于通良十九世矣高量君以下皆葬于此里墳墓累累相望別無碑碣而通良移住東京恐後世或失其処因建石以表之云」の解釈
ここから読み取れることは、まず、三島家は代々、リーダーとして地域の発展に寄与してきたことである。「興田産開」の具体的な内容ははっきりしない。ただ、三島家の屋敷神であった三島社(現・三島日光神社)(写真)には、蚕影大権現の石塔が残っている(写真)(注1)。この石塔は、1815(文化12)年に建てられた。蚕影大権現は言うまでもなく養蚕の神であり、茨城県を中心とした金色姫伝説とも関係する(注2)。江戸時代後期に三島社に蚕影大権現の石塔がつくられたことから、笠幡村の新町地区でも養蚕が営まれていたがわかる。さらに、養蚕が産業として振興していくことを祈願する場が、三島社であったことも確認できる。
次に「高量君以下皆葬于此里墳墓累累相望別無碑碣」とあるが、「相望」は互いに見ること、「碑碣」は石碑の意味である。杉浦守邦が笠幡を訪ねたときに「三島の家は代々修験道であった。従って墓石はなく、故人を葬った土まんじゅうがあるだけである」と記しているが(注3)、通良が三㠀氏累世塋域碑を建てるまで、石の墓碑は何もなかったのである。
そして最後に「通良移住東京恐後世或失其処因建石以表之云」とあり、通良が東京へ行ってしまい、三島家の歴史の伝承が途絶えてしまうのを恐れて、三㠀氏累世塋域碑を建てたことが記されている。この碑は、通良がヨーロッパ留学へ赴くときに建てられている。明治中期の頃のことである。ヨーロッパまで行って、生きて帰ってこられるかわからない。そんな思いが、通良に三㠀氏累世塋域碑を建てる気持ちにさせたのだろう。
(注1)シルク民俗研究会 カイコローグのホームページの「川越市(3)笠幡の蚕影山」をみると、三島日光神社だけではなく、尾崎神社、箱根神社、浅間神社などにも養蚕に関係する神を祀った石塔などが建てられていることがわかる。
(http://www.kaikologs.org/archives/3091)
なお、浅間神社と養蚕の関係については、ほしおさなえ『菓子屋横丁月光荘 金色姫』、角川春樹事務所、2022年、p.165~p.176に小説の一場面として描かれている。
また、添野彬裕氏のHP(https://note.com/good_pansy492/n/n04ef7ac11de8)によれば、修験寺院では養蚕の成功を祈願して、流鏑馬神事を行うこともあったという(「修験寺院住職の地域交流についてー本山派修験寺院大徳院の事例からー」)。
(注2)詳しくは、茨城県県民生活環境部生活文化課のホームページ「茨城の民話Webアーカイブ」を参照のこと。
(https://www.bunkajoho.pref.ibaraki.jp/minwa/minwa/no-0801200009?f=1)
また、ほしおさなえ『菓子屋横丁月光荘 金色姫』、角川春樹事務所、2022年、p.107~p.110でも、金色姫について説明されている。
(注3)杉浦守邦「三島通良」(1)、『学校保健研究』10(2)、p.75
三島日光神社は、元来は三島社と称し、当地の旧家である三島家が代々屋敷神として祀っていた社であった。(中略)
明治期に入り、一九代通良は医学を修めるために渡欧することになったが、この際、所持する不動産の一切を当地の神田成七[ママ]に売却した。そのため、当社も家屋敷と共に神田成七の所有となった。神田成七は明治二五年に死去し、その遺産を相続した孫の耕作は、境内地九六坪と共に三島社を新町の共有地として寄附した。これを受けた新町では、近くにあった日光社(『風土記稿』にある「権現宮」か)を合祀し、社名も三島日光神社と改め、字の鎮守として祀ることになり、現在に至っている。
埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社 入間 北埼玉 秩父』、埼玉県神社庁、1986年、p.188。ただし、三島家が土地を売却したのは東京へ出て行ったときか、通良の父・通卿が亡くなったときのことだと考えられる。また、神田成七は神田茂七の誤りである。
コラム 通良の父の名前は?
—「通郷」か「通卿」か―
これまで通良の父の名前は、通郷と通卿という2通りが伝えられてきた。どちらが正しい名前なのだろうか。
ア)「通郷」〔みちさと〕
①『人事興信録』データベース
ホームページ「日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース」(以下『人事興信録』)(注1)では、1903(明治36)年4月の情報として、三島の父を「通鄕」としている。「鄕」は「郷」の異字体である。通良の父を「通郷」と記している記述は、この『人事興信録』から始まっていると考えられる。
②その他に「通郷」と記しているもの
まず、『明治人名事典Ⅲ 下巻』には「通鄕」と記されている。『明治人名事典Ⅲ 下巻』は1994(平成6)年に刊行されたが、底本は1913(大正2)年に出版されている(注2)。次に、1922(大正11)年に発行された『大日本博士録 第弐巻 医学博士之部(其之壹)』の英文バージョンがあげられる。ここでは、三島の父を「Michisato Mishima」と紹介している(注3)。「Michisato」であるならば、当然「通郷」である。また、西川青柳子「学校衛生の父 三島通良」(注4)でも「通郷」と記されている。西川滇八「人と業績《21》 三島通良 1865-1925年」(注5)も「通郷」である。青柳子と滇八は同一人物である。さらに、霞ヶ関郷土会編『霞ヶ関の歴史』、霞ケ関郷土史研究会編『霞ケ関の史誌』、新井博「修験三島氏の墓碑」、『川越の歴史散歩(霞ケ関・名細編)』といった霞ケ関の郷土史関係の資料でも「通郷」と記されている(注6)。埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社 入間 北埼玉 秩父』(注7)、およびホームページ「歴史が眠る多摩霊園」(注8)も「通郷」である。イ)「通卿」〔みちきみ〕
①三㠀氏累世塋域碑
三㠀氏累世塋域碑については前述したが、1902(明治35)年頃に通良が故郷の笠幡に建てた三島家の墓碑である。三㠀氏累世塋域碑には、父の名前が異字体で「通卿」と刻まれている(下の写真)。
三㠀氏累世塋域碑で使われている文字は、写真のような異字体である。漢字の異字体を検索できるホームページ「グリフウィキ(GlyphWiki)」によると、この字は「卿」の異字体である(注9)。また、日本漢字能力検定協会が主催する日本漢字能力検定の準1級と1級では、許容字体といって異字体でも正答となる文字が指定されているが、写真の文字は、「卿」の許容字体となっている(注10)。
②その他に「通卿」と記しているもの
まず、『明治人名事典 下巻』には「通卿」と記されている。『明治人名事典 下巻』は1987(昭和62)年に刊行された事典であるが、底本は1912(大正元)年に出版されている(注11)。次に、杉浦守邦「三島通良(1)」があげられる(注12)。杉浦氏は1968(昭和43)年に川越市笠幡まで出向き、実際に三㠀氏累世塋域碑を見た上で「通卿」と表記している。さらに、埼玉県近代史研究会編『埼玉人物小百科』(注13)、および埼玉県教育委員会/埼玉県立文書館編『埼玉人物事典』(注14)でも、父は「通卿」とされている。「通郷」と「通卿」のどちらが正しいのか。この問題を考える際に鍵となると思われる記述が、前述した西川青柳子「学校衛生の父 三島通良」にある。そこには、次のように記されている(注15)。
三島通良(つうりょう)は呼名を通良(みちよし)と称したという説もあるが、郷里では通良(つうりょう)と呼んでいた。川越市笠幡(元、霞ケ関村笠幡)に、一八六五年 (慶応元年)[ママ]六月に生れた。父は通郷(つうけい)で、嘉永安政年間に家塾を開いて地元の子弟に漢字や習字を教えていた人である。
「通郷」に「つうけい」とルビが振られている。青柳子は雅号で、本名は滇八である。故・西川滇八氏は大学医学部の教授であり、川越市に在住していた。通良について執筆する際に、西川氏が地元で聞き取りをしていたことはまちがいないであろう。その聞き取りの結果、通良の父は「つうけい」と呼ばれていたという記述を残したのである。
西川氏が「通郷」と記述したのは、霞ヶ関郷土会編『霞ヶ関の歴史』に書かれていた通良の父の名をそのまま使っていると思われる。西川青柳子「学校衛生の父 三島通良」には、『霞ヶ関の歴史』を参考にした記述が少なくない。
だが「通郷」を「つうけい」と読ませることには、いささか無理がある。「郷」の音読みは「コウ」(呉音)、「キョウ」(漢音)、「ゴウ」(慣用音)であって、「ケイ」とは読まない。「ケイ」と読むのであれば、「通卿」のはずである。
結論としては、「つうけい」と読むのであれば、やはり「通卿」が正しいのではないか、というのが筆者の見解である。また、漢学に通じていた通良が、石碑に刻む自分の父親の名をまちがえるとも思えない。
三㠀氏累世塋域碑で使用されていた「卿」の異字体は、普段は目にする機会が少ない文字であったために、『人事興信録』では「卿」を「郷」と勘違いしたのでないかと筆者は推測している。ただし、この推測が正しいかどうか、確証はもてない。三㠀氏累世塋域碑を掘った石工が字をまちがえた可能性もある。「通郷」と「通卿」のどちらが正しいのか、なんとも悩ましい問題なのである。
結論は出ない。が、とりあえず本稿では三㠀氏累世塋域碑にあるとおり、「通卿」と記述していくことにしたいと思う。
(注1)名古屋大学大学院法学研究科が運営するホームページに掲載されている「日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース」(https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who1-2880)より。
『人事興信録』は、1903(明治36)年に内尾直二が創刊した人物情報誌で、2009(平成21)年まで刊行されていた。このホームページは『人事興信録』を全文テキストデータとして電子化したものである。
(注2)『明治人名事典Ⅲ 下巻』(底本:成瀬麟・土屋周太郎編『大日本人物誌』、八紘社、1913年)、日本図書センター、1994年、み之部p.27
(注3)井関九郎監修『大日本博士録 第弐巻 医学博士之部(其之壹)』英文バージョン、発展社、1922年、p.52
この博士録は日本の博士号をもつ人物を紹介した書物である。なお同書には、日本文のページと英文ページがあり、日本文の方には三島の父の名は登場しないが、英文バージョンでのみ「Michisato」と記されている。
(注4)西川青柳子「学校衛生の父 三島通良」、『武蔵野ペン』第二十六号、1981年、p.9
(注5)西川滇八「人と業績《21》 三島通良 1865-1925年」、『公衆衛生』第46巻第3号、p.(69)213~p.(71)215
(注6)三島家について言及した霞ヶ関の郷土史関係の資料は以下のとおり。
・霞ヶ関郷土会編『霞ヶ関の歴史』、p.39~p.40およびp.49~p.50
・霞ケ関郷土史研究会編『霞ケ関の史誌』、p.210~p.211
・新井博「修験三島氏の墓碑」、『川越の歴史散歩(霞ケ関・名細編)』、川越郷土史刊行会、p.50~p.52
(注7)埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社 入間 北埼玉 秩父』、埼玉県神社庁、1986年、p.188~p.189
(注8)ホームページ「歴史が眠る多摩霊園」は、小村大樹氏が作成している。
(http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/mishima_m.html)
(注9)ホームページ「グリフウィキ(GlyphWiki)」(https://glyphwiki.org/wiki/u2f832)。このほかでも、次の辞典などでも確認できる。
・宇野精一監修 日本漢字教育振興会編『漢検 漢字辞典』、日本漢字能力検定協会、2001年、p.392
・日外アソシエーツ編集部編『漢字異体辞典』、日外アソシエーツ、1994年、p.29
(注10)宇野精一監修 日本漢字教育振興会編『漢検 漢字辞典』p.392
(注11)『明治人名事典 下巻』(底本:古林亀治郎編『現代人名事典』第二版、中央通信社、1912年)、日本図書センター、1987年、ミ之部p.39
(注12)杉浦守邦「三島通良」(1)、『学校保健研究』10(2)、p.75
(注13)埼玉県近代史研究会編『埼玉人物小百科』、埼玉新聞社、1983年、p.141
(注14)埼玉県教育委員会/埼玉県立文書館編『埼玉人物事典』、県政情報センター、1998年、p.762
(注15)西川青柳子「学校衛生の父 三島通良」、『武蔵野ペン』第二十六号、p.9
三島通良は1866(慶応2)年に、武蔵國高麗郡笠幡村で三島家の長男として生まれた。父は通卿、母はふきである。三島家は14世紀から続く、大泉院という修験寺院であった。通良は初代から数えて、19代目にあたる。前にも述べたが、初代高量については、『新編武蔵風土記稿』に次のように記述されている。
大泉院 本山修験、郡中篠井村觀音堂配下なり、本尊不動を安ず、開山高量應安五年五月化す
大泉院は本山派の修験寺院であると記されている。幕府の宗教統制によって、江戸時代の修験道は原則として本山派か当山派のいずれかに属することになった。「本山派は天台宗寺門派の園城寺〔おんじょうじ〕末の聖護院門跡を本山とし、当山派は真言宗総本山醍醐寺の三宝院門跡を本山」としていたのである(注1)。
高麗郡の修験道で大きな勢力となっていたのは、篠井村の笹井観音堂であった。大泉院は、その笹井観音堂の配下にあった(注2)。
埼玉県立文書館に保管されている古文書「目録-038-02 八塩家(旧林蔵寺)293 聖護院門跡御教書写(高麗郡笠幡村大泉院年行事職) 1749(寛延2)」には、次のように記されている(注3)。
武蔵國高麗郡笠幡村玉野山
高麗寺大泉院年行事職之事
依 梅之坊願被仰出件然上者
天下國家為安全毎年入峯
無懈怠奉公之可抽忠勤之旨
依 聖護院宮御氣色執達如件
寛延二年
坊官 判
〔現代語訳〕
武蔵国高麗郡笠幡村玉野山高麗寺大泉院の年行事職の事。梅之坊(笹井観音堂)に依って願(大泉院を年行事職に就けること)を(聖護院の宮が)お命じになったが、そういう者(願い出た者)であるからには、天下国家の安全の為に毎年入峯〔にゅうぶ〕(山中の修業)をして、怠けることなく一身をささげ尽して、忠勤の旨に抽〔ぬき〕んずべきである。聖護院の宮のご意向に依り、執達(上から下へ伝える)する件である。
1749(寛延2)年
この古文書からも、大泉院が聖護院配下の本山派の修験寺院であり、梅之坊(笹井観音堂)の末として年行事職に認められていたことがわかる。年行事職とは「聖護院配下の寺の事務をまとめる役のことで、いわば寺の代官である」(注4)。
なお、『新編武蔵風土記稿』には笹井観音堂について、次のような記述があり、笹井観音堂の別称が「梅之坊」であることが確認できる(注5)。
観音堂 別當は即ち観音堂と稱す、又梅之坊とも云、瀧音山泊山寺と號す、本山修験、聖護院末廿八院の其一なり
前述した八塩家(旧林蔵寺)文書から、大泉院は少なくとも18世紀半ばには笹井観音堂の末になっていたことがわかるが、いつから笹井観音堂の配下に入ったのかは明らかではない。
(注1)宮家準『修験道 その歴史と修行』、講談社、2001年、p.90
(注2)狭山市立博物館編『修験の世界―笹井観音堂とその配下―』、2002年、p.11の「観音堂の配下寺院」という表に「高麗郡笠幡村(川越市笠幡)」の「玉野山大泉院」が寺格「正年行事」と記載されている。
狭山市編『狭山市史 中世資料編』、狭山市、1982年、p.378~p.379には、「武州大先達瀧音山白山寺観音堂触下次第」として、1774(安永3)年に笹井観音堂の配下にあった修験寺院の一覧が掲載されている。その中に「高麗郡笠幡村 玉野山大衆院」が登場する。「衆」は「泉」の誤りだと思われる。狭山市編『狭山市史 地誌編』、狭山市、1989年、p.211にも「武州大先達瀧音山白山寺観音堂触下次第」として「高麗郡笠幡村 玉野山大衆院」と記されている。こちらも「衆」は「泉」の誤りだろう。
狭山市編『狭山市史 通史編Ⅰ』、狭山市、1996年、p.366の「笹井観音堂配下の寺院」にも、「笠幡村(川越市笠幡)玉野山大泉院」が登場する。
なお、笹井観音堂については、上記の狭山市立博物館編『修験の世界―笹井観音堂とその配下―』の他、狭山市編『狭山市史 中世資料編』p.3~p.5、p.7~p.15、p.343~p.360、および狭山市編『狭山市史 地誌編』p.157、p.201~p.220、p.628~p.641、さらに狭山市編『狭山市史 通史編Ⅰ』p.362~p.370に詳しく記述されている。
また、笹井観音堂をはじめとする修験道については、添野彬裕氏のHPがたいへん参考になる。
(https://note.com/good_pansy492)
(注3)埼玉県文書館編『埼玉県立文書館収録文書目録第38集 榎本家・八塩家・勝音寺文書目録』、埼玉県文書館、1999年には、入間郡上寺山村 八塩家文書目録の「解説」(p.107~p.113)が掲載されている。
林蔵院は入間郡上寺山村(現・川越市上寺山)にあった山本坊配下の本山派修験寺院であった。代々、林蔵院の住職を務めていたのが八塩家である。
(注4)『狭山市史 地誌編』p.209
(注5)蘆田伊人編『新編武蔵風土記稿 第九巻』p.136
(2)里修験
ア)里修験とは
修験といえば、山伏のことをイメージするのが一般的な認識だろう。だが近世に入り、江戸幕府が宗教を統制するようになると、修験の在り方も中世の山伏(修行者)とは大きく異なるようになっていく。修験道は、山岳修験から町や村に定住する里修験へと変質するのである(注1)。
里修験となった修験者たちは、江戸時代にはどのような存在だったのだろうか。そして、町や村に定着した修験者たちは、何によって生計をたてていたのだろうか。一般的には「里修験者は、村にあっては鎮守の別当ならびに諸祈祷をなし、町にあっては『拝み屋』的な祈祷活動によって生計をたてていた」とされる(注2)。
近世までは「神は仏の化身」を考える本地垂迹思想があり、神仏習合が行われていた。寺の境内には、寺を守るために神が祀られていた。これが鎮守である(注3)。村の修験者たちは、鎮守の別当(長官のこと)となり、祈祷を行っていた。それ以外にも、祭や年中行事、子弟の教育、霊山登拝への先達、檀家へのお札配りなどを行っていた(注4)。
「修験は、人びとの願いに応じて、様々な祈祷札を出し」た(注5)。「厄除け、火伏せ、病気平癒から鼠口封じなど」である(注6)。また、「村に住む修験は、知識人としてしばしば寺子屋を開いて村びとに読み、書き、そろばんや行儀作法などを教え」(注7)ていた。さらに、薬を調合する村修験もいたようである(注8)。
修験道がそういった方法で生計をたてるようになった背景には、幕府の宗教政策があった。なかでも、葬式法要を取り扱うことを禁止されたことの影響は大きかった。このことについて、金本拓士氏は次のように述べている(注9)。
(前略)寺請制度が寺院を保護することになり、修験者が寺院僧侶のように葬式法要を執行することが禁止され、祈祷のみによって生活しなければならなかった(後略)
また、かれら里修験者たちは、修験者として義務であった入峰修行も、滞りがちになり、果てはまったく入峰修行をしない形だけの修験者も多くいたことが、修験道法度に入峰修行懈怠者の処罰が記載されていることからも伺える。
村に定着した修験者のなかには、修験者の義務であった入峯〔にゅうぶ〕修行(山岳の霊場で修行すること)を怠る者も出てきていた。修験者たちは宗教的修行者から、町や村に定着して、地域で生きる存在へと変質していたのである(注10)。
注1)金本拓士「修験道の近代化の問題」、『現代密教』第13号、智山伝法院、2000年、p.86
注2)金本拓士「修験道の近代化の問題」、『現代密教』第13号、p.88
注3)鶴ヶ島町史編さん室編『鶴ヶ島町史 通史編』、鶴ヶ島町、1987年、p.497
注4)埼玉県歴史資料館編『比企歴史の丘 第三回特別企画展 埼玉の修験 展示図録』、1994年、p.12
注5)埼玉県歴史資料館編『比企歴史の丘 第三回特別企画展 埼玉の修験 展示図録』p.22
注6)埼玉県歴史資料館編『比企歴史の丘 第三回特別企画展 埼玉の修験 展示図録』p.22
注7)埼玉県歴史資料館編『比企歴史の丘 第三回特別企画展 埼玉の修験 展示図録』p.23
注8)埼玉県歴史資料館編『比企歴史の丘 第三回特別企画展 埼玉の修験 展示図録』p.24
注9)金本拓士「修験道の近代化の問題」、『現代密教』第13号、p.88
注10)前述した「目録-038-02 八塩家(旧林蔵寺)293 聖護院門跡御教書写(高麗郡笠幡村大泉院年行事職) 1749(寛延2)」に、
天下國家為安全毎年入峯
と、わざわざ「毎年入峯」せよと記されていたのには、このような背景があったことが伺われる。
イ)『武蔵国入間郡森戸村 本山修験 大徳院日記』にみる里修験
笠幡村の大泉院については、まとまった史料は残されていない。幸いにして、笠幡村からさほど遠くない入間郡森戸村(現・坂戸市森戸)にあった修験寺院・大徳院の住職の日記が残されている。大泉院の里修験の実態について、その日記から類推することができるかもしれない。
『武蔵国入間郡森戸村 本山修験 大徳院日記』(以下『大徳院日記』)は、大徳院の住職だった大徳院周応・周乗父子の日記である(注1)。大徳院は入間郡西戸村(現・入間郡毛呂山町西戸)にあった山本坊(注2)の末であり、大泉院は笹井観音堂の末であった。だが『大徳院日記』をみると、両者はその垣根を越えて、頻繁に交流していたことがわかる(注3)。
『大徳院日記』をみていくと、大徳院には日常的に多くの来客があり、地域社会や他の修験寺院と絶えず交流していた様子がわかる。大徳院は、にぎやかなサロンであったといえよう。
添野彬裕氏のHPに掲載されている「修験寺院住職の地域交流について―本山派修験寺院大徳院の事例から―」(以下「修験寺院住職の地域交流」)(注4)では、『大徳院日記』の内容が分析されている。このHPの記述から、笠幡村周辺地域の里修験の実状を考えてみたい。
「修験寺院住職の地域交流」には、次のような記述がある。大徳院では、学問を教授するだけではなく、娯楽の提供も行われていたことが指摘されている。
大徳院住職の父子は好学であり、寺院において、周応が論語・大学・漢学・俳句、周乗が詩会・軍談の会を主催、講談師に依頼して実施した様子が日記に記述がある。(中略)
住職父子の催した学問講義・歌会には、近隣の山伏・人々が多く参加しており、中には泊まり込みで来た人もいた。先に挙げた『大徳院日記』の解説には、周乗は兵法への関心が強く義勇兵組織・軍馬調練機関の創設構想を持っていた記述がある。特に周乗の軍談の会は、講談師に依頼して催した記述が複数回見えるほか、自身でも地域から依頼を受けて実施するなど学問以外でも娯楽を提供していた。寺院は山伏以外でも寺子屋を設置していたのはよく知られるが、娯楽を提供する場所であったのが垣間見える。
(中略)
山伏は多様な教養・技能を習得することで人々と関係を構築していった。それは宗教行為だけで無く、学問・娯楽の面でも関係深化と地域における地位確立の一助なった。特に日常的な学問講義・娯楽提供によって、気軽に寺院に来られる雰囲気作りを大徳院周応・周乗は、目指したと見られる。日記において、訪問者の目的が加持祈祷依頼、相談事であるというのが記述の大部分を占める。各種代金を支払っての契約が師壇関係の基本ながらも文芸交流によって相互親睦を深める社交場であった視点も見逃せないであろう。
文中にあった「『大徳院日記』の解説」とは、横田稔氏による『大徳院日記』の「解題」のことである。大徳院の収入源は家塾だけではなく、加持祈祷や相談事がそれなりのウェイトを占めていたことも指摘されている。学問講義や娯楽提供は、村人が気軽に修験寺院へ来られる雰囲気づくりの側面ももっていたという。まさに「山伏は『地域のカウンセラー』」(注5)だったことがわかるのである。
(注1)横田稔編『武蔵国入間郡森戸村 本山修験 大徳院日記』、高麗神社社務所、2010年
(注2)山本坊は、もともとは現在の入間郡越生町にあったと伝えられるが、その後、入間郡西戸村へ移転した。
(注3)『大徳院日記』に「笠幡大泉院」が登場する箇所は以下のとおりである。大徳院と大泉院はかなり頻繁に行き来していた様子が伺える。
なお、『大徳院日記』には「笠幡大泉院」の他に「小杉大泉院」も登場する。そのため、「大泉院」とだけ記載されている場合には、どちらの大泉院のことなのかわからないのであるが、「大泉院」と記載されている場合も抜き出しておくことにする。また「笠幡」という表記についても、「笠幡大泉院」のことだと考えられる場合には記録しておく。
・1816(文化13)年1月12日「高萩・柏原・奥冨・鎌形・笠幡江年礼持宝院同道」(p.27)
・1816(文化13)年1月28日「大泉院当往来る」(p.28)
・1841(天保12)年3月24日「周応笠幡大泉院附弟良圭加行ニ付行泊」(p.93)
・1841(天保12)年3月25日「泰純・了慶・周応一所ニ笠幡より帰」(p.93)
・1841(天保12)年4月2日「笠幡大泉院来」(p.93)
・1841(天保12)年8月15日「笠幡大泉院良圭来」(p.102)
・1841(天保12)年8月26日「笠幡大泉院泰照来」(p.103)
・1843(天保14)年1月26日「笠幡大泉院年始ニ来」(p.129)
・1843(天保14)年閏9月5日「結願、尤故有て質疎(素)故親類共其外旦中村方一切不招、尤礼をも遺さず、持宝院附弟経慶も同く結願す、修験共浄覚院・福寿寺・瑠璃光院・吉祥院・建剛寺・延命院・妙覚寺・大泉院小杉、是ハ昨夜より来泊、松茸持参・大泉院笠幡・正覚院・正存院・正蔵院・大宮寺是ハ附弟右門也、廿七日より結切世話致す、父ハ不計近家死人有て不合・岩本院昨夜より来泊て料理惣棟梁・万宝院・慈眼院昨日より来泊・光明院・惣吉・伊兵衛」(p.145~p.146)
・1843(天保14)年11月14日「笠幡大泉院へ書翰を届く」(p.150)
・1843(天保14)年12月12日「笠幡大泉院来、酒肴を出す」(p.152)
・1844(天保15)年1月9日「大谷木ト同道笠幡大泉院・森戸新田英蔵・三九郎年礼」(p.153)
・1844(天保15)年1月15日「笠幡大泉院附弟年礼に来、紙二・茶飯を出す」(p.153)
・1844(天保15)年2月11日「笠幡大泉院来扇子持参、酒肴を出す」(p.155)
・1844(天保15)年6月21日「笠幡大泉院ヘ行、手巾一持参、馳走ニなる」(p.162)
・1844(天保15)年6月22日「笠幡大泉院来、酒肴を出す」(p.162)
・1844(天保15)年6月23日「笠幡大泉院付弟来」(p.162)
・1844(天保15)年7月8日「笠幡大泉院来」(p.167)
・1844(天保15)年7月11日「笠幡大泉院来」(p.167)
・1844(天保15)年7月28日「笠幡大泉院来泊酒肴を出す」(p.168)
・1844(天保15)年7月29日「大泉院帰」(p.168)
・1844(天保15)年8月5日「笠幡大泉院来」(p.168)
・1844(天保15)年8月16日「笠幡大泉院来」(p.169)
・1844(天保15)年11月5日「笠幡大泉院付弟来」(p.173)
・1845(弘化2)年3月21日「付弟笠幡大泉院・原三九郎方へ年首札紙五帖・扇二本つゝ持参」(p.184)
・1845(弘化2)年3月28日「笠幡大泉院来紙二・扇一対持参、酒肴を出す」(p.185)
・1845(弘化2)年4月11日「附弟笠幡大泉院へ行」(p.186)
・1845(弘化2)年4月13日「笠幡大泉院在三角観喜院を連来酒壱升持参」(p.186)
・1845(弘化2)年8月3日「笠幡大泉院来」(p.192)
・1845(弘化2)年11月28日「山主笠幡大泉院方へ行」(p.198)
・1845(弘化2)年12月2日「笠幡大泉院酒壱升持参」(p.199)
・1845(弘化2)年12月10日「笠幡大泉院等払暁当家へ来三献有之」(p.199)
・1846(弘化3)年1月19日「詩発会、是より一月三会宛致ス、人数者大宮右門桜陰或ハ桜園、名処能・赤工正蔵院玄有・笠幡大泉院附弟享丸・同和吉名主・宿数馬文及・歌二素節・松三郎石潭、或ハ欠或満会ス」(p.205)
・1846(弘化3)年2月20日「附弟笠幡大泉院・大宮右門同道川越文学朝岡操方詩会ニ行、南町識法院へ泊」(p.206)
・1846(弘化3)年7月24日「笠幡大泉院方詩会ニ付行」(p.213)
なお、『大徳院日記』の性格について、添野彬裕氏のホームページ「所蔵史料から見る修験寺院の運営と霞支配」(https://note.com/good_pansy492/n/n3fb2ce621492)では、次のように述べられている。
さらに『大徳院日記』では山本坊配下寺院ほか、笹井観音堂の配下寺院の出入りの記録も詳細に記述されている。日記の構成は季節の出来事・地域イベントの開催、山伏、地域の人々との交流の様子がメインだ。記録の趣旨は業務日報の性格が強く所縁のある人間を次世代の円滑な運営のために把握して継承する意味があった。そこにはトラブルを避けたい思惑があったのは確実だ。
(注4)添野彬裕氏のホームページ「修験寺院住職の地域交流について―本山派修験寺院大徳院の事例から―」(https://note.com/good_pansy492/n/n04ef7ac11de8)
(注5)ホームページ「修験寺院住職の地域交流について―本山派修験寺院大徳院の事例から―」
江戸時代の末期、つまり通良が生まれた頃、三島家は地域にとってどのような存在だったのだろうか。前述したように三島家の大泉院については、里修験についてのまとまった史料は残っていない。森戸村の大徳院の様子から類推すると、通良が幼少期をおくった修験寺院・大泉院でも、人々が絶えず集まり、社交場ともいえる雰囲気だったのだろう。そうした環境のなかで、通良は成長していったと考えてよいと思われる。
ただし、三島家についての史料がまったくないわけではない。わずかに残っている記録を参考にして、近世末期の三島家について考えてみたい。
ア)獅子舞
大泉院を拠点とした活動として明かなことには、獅子舞がある。『川越市史民俗編』には、「笠幡の獅子舞」という項目に、次のような記述がある(注1)。
伝えによると、以前は今の三島神社の東隣に三島大泉院があって、獅子はここに保管され、獅子舞もここから出たらしい。大泉院には法師の三島通郎[ママ]という者がいて、通良という慶応元年(一八六五)頃の生まれの子供があった。通良が十七歳のとき、通良はドイツに医学の勉強に行くために家財道具一切を売り払って大泉院を出てしまった。その後獅子は神田勇次郎宅に保管され、更に大泉院の地所を買って家を建てた神田義明宅が獅子の宿になったという。
ここには、『川越市史民俗編』が出版された1968(昭和43)年頃に、川越市笠幡の新町地区に伝わっていた三島家についての記憶が記録されている。三島家が笠幡を離れてから約70年後のことなので、事実と異なる記述も多い。だがこの記録から、三島家の大泉院が地域の年中行事の中心になっていたことがわかる。
修験寺院は獅子舞のような祭祀の中心となっていた。その理由について、添野彬裕氏のHP「修験寺院住職の地域交流」には次のように記されている。
地域の祭祀(祭り、庚申講)においては導師を務めていた。祭りの具体例は神楽・獅子舞などである。
神楽・獅子舞・和歌・俳諧といった歌舞音曲は、五穀豊穣、疫病退散を祈願する加持祈祷の側面があり宗教行為でもあった。そこに地域の山伏が導師を務めることによって祭祀の効果を確保する狙いがあった。
つまり、大泉院があった笠幡村の新町地区では、三島家という修験寺院が獅子舞を主導することによって、人々は五穀豊穣を祈り、疫病を退散させようとしていたのである。大泉院は地域社会の精神的な支柱になっていたということができるだろう。
なお、川越市博物館編『第15回企画展図録 悪疫退散・五穀豊穣ー川越の獅子舞』に「笠幡の獅子舞」として、三島日光神社の獅子舞が掲載されている(注2)。
イ)家塾
では、通良の父・通卿の時代、三島家は何によって生計を維持していたのだろうか。霞ヶ関郷土会編『霞ヶ関の歴史』には、次のように記されている(注3)。この『霞ヶ関の歴史』の記述には、もとになる文書が存在していたかどうかはわからない。おそらく、『霞ヶ関の歴史』が世に出た1962(昭和37)年頃、地域に伝わっていた三島家の伝承をまとめたものと思われる。
〇三島通郷
大泉院と号し山伏にして、聖護院本山派篠井観音堂末修験道場にて修行した。又儒学者でもあり、書は御家流の名手であつた。徳川末期より明治初期にかけ名声遠近に聞えた学識者であつた。家塾を開き門弟に教授した。
通良の父・通卿は「名声遠近に聞えた学識者」であり、家塾を開いて門弟に漢学や書道を教えていたようである(注4)。三島家の人々は、地域の知識階級であった。『大徳院日記』には、笠幡大泉院で漢詩の会があったと記述されている(注5)。これは通卿の曽祖父の時代の記述と考えられる。また、通良が祖父・泰然から漢学を教わっていた(注6)ことからも、三島家では代々、漢学や漢詩を熱心に学んでいたことがわかる。家塾では漢学だけではなく、書道も教えていた。江戸時代には御家流の書を学ぶことが一般的であった。通卿は「御家流の名手」であったという。
三島家の家塾は、大人だけではなく、子どもたちも対象とした寺子屋としての側面ももっていた可能性が高い。この家塾が三島家の主な収入源だったことはまちがいないだろう。三島家は代々、村の知識人として村人の尊敬を集めていた。そして、村の人たちはもちろん、修験道や学問のネットワークで繋がっていた、たくさんの人が出入りしていたと思われる。
ウ)加持祈祷・相談・お札配り
これらについては、特に記録は残っていない。だが大泉院でも、『大徳院日記』における大徳院と同じような活動をしていた可能性は高い。加持祈祷を行ったり、村人からの相談を受けたり、さらにさまざまなお札を配ったりして、「地域のカウンセラー」として収入を得ていたのではないかと推察される。
(注1)川越市総務部市史編纂室編『川越市史民俗編』、川越市、1968年、p.483
(注2)川越市博物館編『第15回企画展図録 悪疫退散・五穀豊穣ー川越の獅子舞』、川越市博物館、1999年、p.51には、獅子頭の写真(正面と側面)が掲載されるとともに、次のように記されている。
26.笠幡の獅子舞
1)所在地
川越市笠幡 三島日光神社
2)期日
10月10日のオヒマチに獅子頭を飾って祭典を行っている。以前は10月9日に行われており、通称「オクンチ」と呼ばれた。
3)由来・歴史
明治末年頃まで、獅子舞が舞われていたという。明治30年(1897)9月の日付のある「獅子連名帳」には、獅子課11人、軍配3人、笛課13人、歌課10人の名前が記されている。また、昭和3年(1928)に疫病が流行し、この地区でも多数の死者が出たため、獅子頭をかぶって村の全戸を回り疫病を祓ったという。
4)獅子頭
獅子頭3頭の名称は不明である。雄獅子は黒塗りと緑色塗りの2頭で、共に宝珠を頭上にのせている。角〔つの〕は、黒塗りの獅子がねじり角、緑色塗りの獅子が棒角である。雌獅子は朱塗りで宝珠をのせている。
ただし、地域での聞き取りによると、現在は10月10日に獅子頭を飾ることは行っていないという。
(注3)霞ヶ関郷土会編『霞ヶ関の歴史』p.50
(注4)新井博「修験三島氏の墓碑」、『川越の歴史散歩(霞ケ関・名細編)』p.52
(注5)横田稔編『武蔵国入間郡森戸村本山修験 大徳院日記』p.213には、1846(弘化3)年7月24日に次のような記述がある(大徳院周応「九梅堂日記 九」、大徳院文書八五七)。
笠幡大泉院方詩会ニ付行
大徳院の大徳院周応が、笠幡村の大泉院で開かれた漢詩の会に参加したことがわかる。この頃の大泉院は通良の曽祖父・良順が当主だったと思われる。
また、その5か月前の1846(弘化3)年2月20日の日記(p.206)には、次のように記されている(大徳院周応「九梅堂日記 九」、大徳院文書八五七)。
附弟笠幡大泉院・大宮右門同道川越文学朝岡操方詩会ニ行、南町識法院へ泊
「附弟」は弟子の意味なので、大泉院の当主ではない。通良の祖父・泰然の可能性もある。この大泉院の附弟が大宮右門とともに、川越で朝岡操の漢詩の会に参加していたのである。横田稔氏による『大徳院日記』の「解題」(p.300)によると、朝岡操は儒学者であり、後に大徳院周乗が師事したという。
(注6)杉浦守邦「三島通良」(1)、『学校保健研究』10(2)、p.75
(4)神仏分離と修験道の禁止
江戸時代末期までは、神仏習合は普通のことであった。村の修験者たちは鎮守の別当となり、祈祷を行っていた。「修験道系の寺院僧侶にとって、自らは仏教の僧侶の立場であったとしても、権現を祀っている場合、自らの立場が寺院なのか、それとも神社なのか判別しがたいものがあった」(注1)という。ところが、1968(明治元)年、神仏分離令が発布されると、寺と神社ははっきりと分けられるようになった。修験道はたいへんきびしい立場に追い込まれた。金本拓士氏によると、彼らは次のような選択を強いられていた(注2)。
神仏分離令は、修験末寺、里修験をその存在自体が消滅せざるを得ない状況まで追い込んでいった。すなわち、それまでの末端の修験者たちは、元来神仏習合を前提とした権現に社僧として奉仕していたが、分離令による還俗命令によって、多くの修験者たちは、還俗して神官になるか、あるいは一般人として農業等に従事せざるを得ない状況であった。
修験寺院では、還俗して神官になるのか、あるいは他の生き方を探すのかという、きびしい選択を迫られることになったのである。
さらに追い打ちをかけるように、1872(明治5)年、太政官布告によって修験道は廃止される。この結果、聖護院を本山とする本山派は、天台宗に帰入することになった。
なぜ明治政府は修験道を廃止したのだろうか。宮家準氏によれば、政府が修験道を廃止した理由は、次のように考えられるという(注3)。
(前略)明治初年の神仏分離令の拡大解釈によって各地で廃仏毀釈運動が起こっている状況の中で、仏教各派の復旧請願運動に対応しつつあった明治政府が、何故修験道を廃止しようとしたのか明らかではない。ただ、修験者の近世における神社祭祀への関与について社家との争いがしばしばおこっていたことをはじめ、無檀であるため呪術や祈禱を専らとし、その多くが神仏習合に基づくものであったことなどが、復古神道家を中心とする宗教政策担当者に危険視されたためであると推測できる。
『鶴ヶ島町史 通史編』によると、1868(明治元)年に脚折村(現・鶴ヶ島市脚折)の白鬚神社の別当を勤める正福院が還俗して、神職になることを決心した。また、翌年には三ツ木村(現・鶴ヶ島市三ツ木)の大宝院も還俗の願書を出したという(注4)。
森戸村の大徳院でも、大徳院周乗は1868(明治元)年に還俗して、神職になっている。周乗は明治以降も家塾を継続して、近隣の子弟を集めて漢学と書道を教えた(注5)。
一方、通良の父・通卿は笠幡村を出て、一家で東京へ行くという選択をする。通卿の上京について、『霞ヶ関の歴史』では次のように述べられている(注6)。この記述も、『霞ヶ関の歴史』が刊行された1962(昭和37)年頃に、地域での聞き取りの結果を記したものと考えられる。
明治十六年[ママ]田畑家財を当時六十円で売払い志して東京に知人を尋ねて遊学し、官職につき後、神奈川県検事に累進したという。
通卿が「田畑家財」を売却したのは、神田家である。『埼玉の神社 入間 北埼玉 秩父』には、次のように記されている(注7)。
明治期に入り、一九代通良は医学を修めるために渡欧することになったが、この際、所持する不動産の一切を当地の神田成七に売却した[ママ]。そのため、当社も家屋敷と共に神田成七の所有となった。
当時の状況を整理して、再度考えてみる。三島家は大規模な農業を営んでいたわけではない(注8)。農業だけで生きていくことは容易ではなかったであろう。村に残るのであれば、三島社(現・三島日光神社)の神官となり、いままでどおりに家塾と加持祈祷料と相談料で生計を立てていくことになる。
だが、通卿はそうしなかった。通卿は、新たな時代に適応するために、新たな人生にチャレンジすることにしたのである。進取の精神をもった人物であったのだろう。それに通卿はまだ若かった。東京へ行くという決断をしたときには、まだ30代半ばだったのである。もし父・通卿が笠幡村に残るという選択をしていたならば、通良の人生はまったくちがったものになったであろう。
また『大徳院日記』の「解題」には、大徳院周乗は「江戸の東条琴台、大沼枕山などに師事した」とある(注9)。この時代には、知識階層の人々は意外に広い範囲で連絡を取り合っていたのである。通卿の「知人」がどのような人物であったのかはわからないが、修験道か学問上のネットワークで繋がっていた人物なのだと考えられる。
神仏分離と修験道の廃止。そして激変する時代のなかで、三島家は東京での新しい生活をスタートさせるのである。
(注1)金本拓士「修験道の近代化の問題」、『現代密教』第13号、p90
(注2)金本拓士「修験道の近代化の問題」、『現代密教』第13号、p90
(注3)宮家準編『修験道辞典』、東京堂出版、1986年、p.196~p.197
(注4)鶴ヶ島町史編さん室編『鶴ヶ島町史 通史編』p.495~p.496
(注5)横田稔「解題」、横田稔編『武蔵国入間郡森戸村 本山修験 大徳院日記』、p.300
(注6)霞ヶ関郷土会編『霞ヶ関の歴史』p.50
(注7)埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社 入間 北埼玉 秩父』、埼玉県神社庁、1986年、p.188
ただし、この記述には誤っているところがいくつかある。まず、三島家が土地を売却したのは、一家が東京へ出て行ったとき、もしくは通良の父・通卿が亡くなったときのことであり、通良がヨーロッパ留学したときではないと考えられる。
また、地域の人たちへの聞き取りによると、売却した相手は「神田成七」ではなく、「神田茂七」である。三島の生家のあたりは神田姓が多いために「神田宿」とも呼ばれ、互いを屋号で呼び合っている。「神田茂七」家の屋号は「三島」である。現在、通良の生家の地所のうち、北側の2/3は分譲地となり、6軒の家が建っている。
(注8)霞ヶ関郷土会編『霞ヶ関の歴史』p.49には、次のような記述がある。
四、斩町
現在の新町は裏宿であつたようである。須恵器、室町中末期の板碑、中国朝鮮の古銭多数出土している。中新町(小塚二)、下新町(塚二)塚上に庚申塔あり、西方に土畳館跡らしいものも見うけられる。東端に「こくうぞう」という地名あり。こくうぞう様を祭る。中央に堂宇あり(篠井観音末)慶安検地帳一反六分と記され大仙重院[ママ]大仙院という山伏の行者がいたようである。
(注)慶安元年子三月七日 弐拾冊之内
武州川越領笠幡村御検地水帳
名主治郎右衛門
案内四郎左衛門 五郎左衛門 七郎右衛門
宿裏
上畑九畝三分 仙重院
上畑八畝弐拾歩 同人
下畑弐畝四 同人
下畑四畝 三歩 大仙院
中畑三畝弐拾歩 仙重院
中畑六畝五歩 同人
中畑 畝拾歩 同人
上畠七畝拾四歩 同人
上畑九畝三歩 仙重院
上畑八畝弐拾歩 同人
下畑弐畝四歩 同人
下 畑四畝拾七歩 大仙院
下 畑九畝拾五歩 仙重院
下 畑五畝拾五歩永ふ作 同人
下 畑壱畝三歩 大仙院
〇慶安元年子三月二日
名主庄兵衛、案内久兵衛、茂兵衛、源右衛門 大町
下ゝ畑壱畝廿弐歩 仙重院
下ゝ畠弐畝歩 同人
下畠四畝拾六歩 同人
下畠壱畝廿五歩 同人
下畠八畝弐歩
大泉院の創建は初世三島高貴[ママ]、十八世三島通郷、明治初期日光三島大神を祭る。後の大仙院は本町に移り、廃家大塚氏を再興したという。塚上に浅間神社を祭り富士講を開き信者を得た。(本町)現在部落持
新町二荒三島両神社はもと三島氏の屋敷鎮守、現在部落持
蚕影神社は嘉永年間建立下宿講中なり。
資料に出てくる「仙重院」および「大仙院」と、大泉院の関係は不明である。「大仙院」が大泉院のことだとすると、大泉院が所有する土地を合計しても、さほど広い面積にはならない。しかも『大徳院日記』の記述をみると、「大泉院附弟」という記述が多く出てくる。「附弟」は弟子という意味なので、大泉院は「大家族」で居住していた可能性が高いのではないかと考えられる。
また、「後の大仙院は本町に移り、廃家大塚氏を再興した」のがいつ頃のことなのかはよくわからない。浅間神社の富士講については、ほしおさなえ『菓子屋横丁月光荘 金色姫』、p.166~p.176でも、小説の1シーンとして取り上げられている。
(注9)横田稔「解題」、横田稔編『武蔵国入間郡森戸村本山修験 大徳院日記』、p.300
本当に残念なことであるが、笠幡時代の通良に関する資料はまったくといっていいほど見つかっていない。わかっていることは1866(慶応2)年に生まれたことと、10才くらいのときに一家で笠幡村を後にして、東京へ出て行ったことだけである。
聞き取りによるいくつかの証言は残されているが、それも三島一家が村を出て行ってから90年以上経過した後のものであり、どこまで信用できるのかはわからない。
杉浦守邦氏は、1968(昭和43)年頃に川越市笠幡を訪問し、聞き取りを行ったときのことを、次のように記している(注1)。この聞き取りでは、通良は祖父・泰然から漢学を教わったことと、「明治8年すなわち10才頃まで、笠幡にいたらしい」という証言が重要である。
なお、通良の母・ふきは小ヶ谷村(現・川越市小ヶ谷)の出身であり、としは姉ではなく妹である。また、村人が通良と混同していた三島通庸(1835―1888)は、薩摩藩出身の内務官僚であり、県令時代には福島事件を起こした人物として知られている。
三島の生家は前述のごとく埼玉県川越市にある。当時は高麗郡笠幡村60番地といった。国鉄川越線笠幡駅で下車し、畑の中の道を東北へ向かって約1km、下宿(しもじゅくまたは新町)という部落にある。目標は三島神社という小祠と聞いて、筆者がたずねていったときは、駅前のハイヤーの運転手もこれを知らなかった。やっとある農家の若い衆が知っていて、オート三輪の助手台に乗っけて連れていってくれた。神社の東隣に神田義明という人の邸があるが、ここが三島の生家跡であるという。三島神社は不動明王を祭ってあるが、もとからの郷社ではなく、かつては三島家巽の方角の守り神であったものらしい。神田氏に聞くと、三島の生れた当時の家屋は今は全くなく、その頃のおもかげを伝えるものとしては、一本の柿の老木と古井戸だけであるという。なおここから300mほど北に三島家代々の墓地があるというので、そこに案内してもらった。
三島の家は代々修験道であった。従って墓石はなく、故人を葬った土まんじゅうがあるだけである。明治35年三島が先祖の顕彰のためにたてた三島累世塋域碑という大きな石碑が目につくが、表面にはこの地に来てからの先祖18代の名が刻まれ、裏面にはその由来がほられてある。それによると、三島の家はもと清和源氏,、源頼義の子孫で、頼義が伊豫守として四国に下ったとき、その四子親清が大三島(調べてみると国鉄呉線竹原の対岸の島らしい)に住み、三島四郎親清と名のったのが始まりであるという。それからずっと下って、子孫朝清のとき伊豆の三島に移り、義清を経て高量のとき、武蔵国高麗郡三芳野里の現在地に移った。康永3年(北朝光明天皇の時代)のことである。以来高量より三島の父通卿に至るまで18世、この地にあって開拓者兼指導者としての役割を果して来たものらしい。神田氏に聞くと三島の父通卿は修験道の位で、大施院(だいせんえん)と呼ばれていたという。
三島は通卿の長男として生れた。母は広島県の出身[ママ]でふきといい、姉[ママ]がひとりあってとしといった。祖父(17世)泰然は、自宅で漢学を教えており、三島はこの祖父から漢学の素養を受けたという。
父通卿は、明治維新後修験道を捨て、東京へ出て医師となり門戸をはったというが、この辺のことはよくわからない。(笠幡地区の人は、通卿が後に茨城県知事になったようなことをいうが、これは明らかに間違いである。鹿児島出身の三島通陽[ママ]と混同している。この両者は全然関係がない)神田氏が老人から聞いた話では、三島は明治8年すなわち10才頃まで、笠幡にいたらしい。
西川滇八氏は、1981(昭和56)年の著作で、次のように述べている(注2)。ここでは、通良が幼少期に地元では「つうりょう」と呼ばれていたことがわかる。
三島通良(つうりょう)は呼名を通良(みちよし)と称したという説もあるが、郷里では通良(つうりょう)と呼んでいた。川越市笠幡(元、霞ケ関村笠幡)に、一八六五年 (慶応元年)[ママ]六月に生れた。父は通郷(つうけい)で、嘉永安政年間に家塾を開いて地元の子弟に漢字や習字を教えていた人である。元来、三島家は山伏の旧家で、通郷は修験道場で修行をした人であり、儒学者でもあり、御家流の書の名手として有名な人であった。明治十六年[ママ]に修験道場である大泉院が廃止されると、自ら家財田畑を整理して、当時の五百円をえて東京に遊学して後、官職について神奈川県検事に累進したということである。したがって 子息の通良も父に従って上京し、学問を志して、東京帝国大学に学び、一八八九年(明治二十二年)に医学部を卒業した。通良は大学院に進み小児科学を専攻したが、その研究課題が学校衛生であった。これが機縁で生涯を学校衛生に捧げることになったといえよう。
新井博氏は、1982(昭和57)年の著作で、次のように述べている(注3)。この聞き取りでは、通良が「少年のときから聡明の聞こえが高く」というのが唯一の証言であるが、これは三島家が村を出てから100年以上が経過した後のものである。
墓碑を建てた三島通良は通郷の子で、慶応二年(一八六六)に笠幡村に生まれ、少年のときから聡明の聞こえが高く、大きくなってから帝国大学医学科を卒業し、文部省の依嘱で全国各地の学校の衛生状態を調査し「学校衛生学」を著し、学校衛生を理論的に大成した功労者である。
笠幡時代の通良のことで、わかっていることをまとめてみよう。通良は父・通卿と母・ふきのもとで1866(慶応2)年に生まれた。通卿とふきには5人の子が生まれる(注4)。
父・通卿(1839-1883)
母・ふき(1839-1904) 小ヶ谷村の農家・内田辰三の長女
長男・通良(1866-1925)
長女・とし(1869-1938)
二男・道堅(1873-1879)
三男・通寿(1877-?)
二女・ヨシ(1878-1879)
このうち、三男・通寿は養子に出ている。また、二男・道堅と二女・ヨシは幼くして亡くなっているので、三島家の子どもで成人したのは長男・通良と長女・としである。
通良は「つうりょう」と呼ばれ、祖父・泰然の指導で漢学の素養を身に着けていた。1872(明治5)年に学制が発布されるが、笠幡村に小学校ができるのは、1874(明治7)年のことである。延命寺にできた笠幡小学校である。このとき通良は8才になっていたので、笠幡小学校へ通ったものと思われる。「聡明」な子どもだったのであろう。そして、10才くらいのときに村を離れていくのである。笠幡時代の通良については、残念ながら、これ以上のことはわかっていないのである。
(注1)杉浦守邦「三島通良」(1)、『学校保健研究』10(2)、p.74~p.75
(注2)西川青柳子「学校衛生の父 三島通良」、『武蔵野ペン』第二十六号、p.9。前述したが、青柳子は雅号で、本名は滇八である。
(注3)新井博「修験三島氏の墓碑」、『川越の歴史散歩(霞ケ関・名細編)』p.52
(注4)杉浦守邦「三島通良」(4)、『学校保健研究』11(3)、1969年、p.144
なお、ホームページ「日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース」では、通良の母・ふきについては、次のように記されていて、杉浦氏の記述とは異なっている。
天保十年五月生埼玉縣平民杉田辰藏長女
ふきの父の名が、「内田辰三」ではなく、「杉田辰藏」となっているのである。どちらが正しいのかはよくわからない。
三島四郎親清が『予章記』に登場することは前述した。『予章記』には、源頼義の四男・親清が河野家の婿に入った、と記述されていた。『予章記』にはその続きがある。親清と河野家の娘との間には子どもが生まれなかった。そこで、親清の妻は、大三島の大山祇神社(『予章記』では「三島明神」と記述されている)へ真夜中に通うようになる。「この頃、三島明神は、家督たる人物が丑時(午前二時頃)に灯明をすべて消して参詣するならば、姿を現して対談したという」(注1)。『予章記』には、次のように記されている(注2)。
又、親清ニモ長子ナカリケレバ、女中<親経ノ女>、氏神三島宮へ参籠有テ、家事ヲ祈請セラル。其比迄ハ家督タル人ノ社参ニハ、丑ノ時ニ諸社燈明ヲ悉ク消シテ参玉へバ、明神(モ)三ノ階迄御出有テ、御対談有シ事也。如其女中参勤有テ心中(ノ)趣具二申玉へバ、明神モ下ラセ玉フ。「就中長子ナクテハ誰二家ヲバ可令継」卜仰有ケレバ、明神ノ御声ニテ、「親清ハ異姓(ニシテ)他人也。努々不可為種姓」トアリケル。女中、「シカラバ我身ヲ何トテ男子トハ成シ玉ハヌヤ。サテハ子孫ヲ御絶シ可有哉」卜申玉へバ、明神モ道理二攻ラレ(玉ヒ)テ、「然バ今一七日伺候アレ」トテ、神ハアガラセ玉フ也。御託宣二任テ又七ヶ日、御社籠有ケル。(第)六日二当ル夜半程ニ、長十丈余ノ大虵ノ身ヲ現シテ、御枕本二寄玉フ。本ヨリ大剛ナル女中ナレバ少モ不騒、其時ヨリ御懐胎有テ男子一人出来玉フ。
三島明神は、「親清は源氏の血筋なので、河野の家を継がせてはならない」(注3)と言い、大蛇の姿で現れて、親清の妻を懐妊させるのである。そして、男子が誕生する。その子が河野通清である。通清は異相であり、常人ではなかった。『予章記』は次のように続く(注4)。
其形、常ノ人二勝テ容顔微妙ニシテ、御長八尺、御面卜両ノ脇トニ鱗ノ如クナル物アリ。小跼シ背溝無也。面前ノ異相ナルヲ恥玉テ、人二向フ事ヲ慎(ミ)、常二手ヲ挿レ頭玉ヘバ、「河野ノ物恥」卜申伝タリ。烏帽子二手形ノ有事(モ)此謂ナリ。河野新大夫卜云、後二伊与権介通清卜称ス。是ヨリ通ノ字ヲ名乗ル也。其故ハ、明神一夜密通ノ義ヲ以テ云爾。即大通知勝ノ理顕然タリ。然ルヲ今諸人是ヲ名乗ル事、太以不可然也。十八ヶ村ハ、皆連枝ノ末葉ナレバ不苦歟。其モ無引付可有斟酌。
「是ヨリ通ノ字ヲ名乗ル也。其故ハ、明神一夜密通ノ義ヲ以テ云爾」とあるとおり、河野氏では「通」の字が一族の通り名(実名に、祖先より代々伝えてつける文字)になったという。「通」は三島明神との密通の「通」であるとともに、「大通知勝仏」の「通」でもあった(注5)。
もちろん、この『予章記』のエピソードは架空の話である。ただ、河野家の男子に「通」の字が使われていることの理由付けになってきたことは、確認しておきたい。
ところで、三島家の墓碑で三島家代々の名前をみると、「通」という字はずっと使われていなかったが、通良の父・通卿のときに「通」の字がついた名前になり、次の通良に受け継がれる。
三㠀氏累世塋域碑には、三島家は三島四郎親清の末裔であると記されていた。つまり、三島家は伊予の河野家の子孫だという認識である。想像の域は出ないが、三島家の人々がそのような認識をもつようになったのは、通卿の父・泰然、あるいは祖父・良順の頃だったのではないだろうか。良順または泰然は、自らの家系が伊予の河野氏の末裔だと考えたがゆえに、子ども(あるいは孫)に「通」の字が入った名前をつけたのではないか。
もしそうであるならば、三島家の祖先が読んだのは、『予章記』か『異本義経記』だった可能性が高い。『異本義経記』は、「『義経記』には見られない、異伝や異説を多く収めた作品」(注6)である。『異本義経記』の成立は江戸時代前期であるといわれ(注7)、『予章記』の内容も含まれている。ただし、『予章記』は、塙保己一の『群書類従』に載せられている。『群書類従』の刊行は1793(寛政5)年~1819(文政2)年頃なので、三島家の祖先は『群書類従』で『予章記』の存在を知ったのではないか、と考えることもできるだろう。
父・通卿と通良。この2人の名前に「通」の字が使われた理由を検討してみた。ここに記したことは推測の域を出ない。ただ通良は生涯、三島家の家系に強い関心を持ち続け、やがて歴史学に熱中するようになる。通良には娘しかいないが、もし男の子が生まれていたら、「通」の字を使った名前をつけていたのではないか、と筆者は想像している。
(注1)佐伯/山内 校注『伝承文学注釈叢書1 予章記』、p.57
(注2)佐伯/山内 校注『伝承文学注釈叢書1 予章記』、p.56
(注3)佐伯/山内 校注『伝承文学注釈叢書1 予章記』、p.57
(注4)佐伯/山内 校注『伝承文学注釈叢書1 予章記』、p.56
(注5)佐伯/山内 校注『伝承文学注釈叢書1 予章記』、p.58
なお、「大通知勝仏」は『法華経』化城喩品に見える仏の名で、大山祇神の本地とされる。本地〔ほんじ〕とは、仏や菩薩 が人々を救うために神の姿となって現れた垂迹身に対して、その本来の仏や菩薩のこと。
(注6)八木直子「『異本義経記』と『予章記』との関係について」、『甲南女子大学大学院論集』第4号(言語・文学研究編)、2006年、p.1
(注7)八木直子「『異本義経記』と『予章記』との関係について」、『甲南女子大学大学院論集』第4号(言語・文学研究編)、p.1
1 東京への転居
(1)医者を止めた父・通卿
三島一家が笠幡村から東京へ移った時期ははっきりしないが、1876(明治9)年頃のことだと考えられる。転居したのは、父・通卿(36歳)、母・ふき(36歳)、通良(10歳)、妹・とし(7歳)、弟・道堅(3歳)の5人は確実だが、祖父・泰然や祖母(名前は不明)が存命だったかはわからない。また、1876(明治9)年には、妹・ヨシと弟・通寿はまだ生まれていなかった。
通卿は「東京に知人を尋ねて遊学」(注1)したという。修験道もしくは学問上の知己を頼って上京し、蘭学を学んだのである。そして、医者になった。
なぜ通卿が医者になったのかはわからない。もし漢方医になったのであれば理解しやすい。もともと修験寺院のなかには漢学を学んでいる関係から漢方の知識をもち、薬を煎じて販売している者も少なくなかったからである。修験道と漢方医は、距離が近かったといえる。しかし、西洋医学となれば話は別である。
幕末以降、各地で流行した伝染病に対して、漢方医は有効な手立てを講じることはできなかった。他方、蘭方医は天然痘に対して牛痘苗を用いた種痘法を用いるなど、伝染病の脅威に立ち向かっていた。
通卿が上京する直前の1874(明治7)年には、西洋医学の優位性を認識していた明治政府によって医制が公布されて、国家試験による医師の開業許可制度がはじまっていた。西洋医学を学んで国家試験に合格するか、西洋医学の教育機関を卒業した者以外は、新たに医師になることはできなくなっていたのである。
通卿は新しい時代のなかで、自分が身を置く場所として、医師になることを選択した。通卿がどこで蘭学を学んだのかは明らかではないが、西洋医学を学べる学校へ通って、国家試験に合格したと思われる。そして、東京のどこかで医師を開業した。
ところが、通卿は短期間で医者を止めてしまう。通良は、次のような記述を残している(注2)。
私の父は和蘭〔オランダ〕学をやつた医者で初めは少時〔しばらく〕開業して居たのであるが、自分の様な下手な医者が開業して居ては、仁術でなく却〔かえ〕つて不仁術だから、止めた方が世の中の人の為だと云つて医者を止めて終〔しま〕つた。そして役人になつたのである
通卿は蘭学を学んで医師になったが、自分のことを「下手な医者」だとして医師をやめて、役人になったのだという。なぜ通卿は医者をやめてしまったのか。はっきりとしたことはわからない。通卿の気持ちを推測すると、自分は付け焼刃的に蘭学を学び、医者になってみたものの、充分な素養があるわけではなく、中途半端な存在だと、自身を卑下していたのではないだろうか。
通卿は医者を止める決断を下すと役人になった。どんな役所なのかはわかっていない。ただし、あまり重要な役職にはついていなかったようである。『霞ヶ関の歴史』には「官職につき後、神奈川県検事に累進したという」(注3)と記されているが、この記述にあまり信憑性はない。通良によると、通卿の給料はあまり高くなかった。通卿が役人になった後、三島家の「家政は豊かぢやなかつた」(注4)のである。
(注1)霞ヶ関郷土会編『霞ヶ関の歴史』p.50
(注2)三島通良「月費僅に五十銭 医学博士 三島通良君」、『名士の学生時代』p.279~p.280
ところで、1868(明治元)年の神仏分離令で修験道が苦境に陥ってから、1876(明治9)に東京へ出て行くまでの8年間、父・通卿は何をしていたのだろうか。
通良は「私の父は和蘭〔オランダ〕学をやつた医者で初めは少時〔しばらく〕開業して居た」と記しているが、それがいつ、どこでのことなのかはわかっていない。まだ笠幡村にいたときに蘭学を学んだ可能性も排除はできないのであるが、当時、川越近辺に蘭学者がいたかどうかは確認できていない。また、笠幡村で蘭方医を開業していたのならば、地域の歴史や人々の記憶に残ったと思われるが、そのような記録は見当たらないので、その可能性はゼロに近いだろう。
やはり東京へ転居するまでの8年間は、修験寺院・大泉院の残務処理にあてられたのではないかと思われる。通卿は神仏分離令に対して、三島家の家業であった家塾を継続したものの、明治という新しい時代のなかで、新たな人生を模索していたのではないか。そんなときに蘭学に出会い、東京で本格的に学ぶことを決断したのかもしれない。あるいは、通卿の父・泰然が地域に残ることを主張していて身動きがとれなかったが、その死去によって(いつ亡くなったのかはわかっていないのだが)東京へ行くことができるようになった可能性もある。
いずれにしても、この「空白の8年間」については記録がないので、何もわからないのである。
(注3)霞ヶ関郷土会編『霞ヶ関の歴史』p.50
(注4)三島通良「月費僅に五十銭 医学博士 三島通良君」、『名士の学生時代』p.280で、通良は父・通卿が医者を止めて役人になったときの三島家の経済状態を次のように記している。
(前略)やつと四十円位の月給だつたから決して家政は豊かぢやなかつた
(2)医学の道へすすむ決意
通良は小学生のときに、すでに医学の道にすすむことを決意していた。小学校卒業後には、そのためのルートを真っ直ぐにすすんでいくのである。
なぜ通良は医学を学ぶ選択をしたのだろうか。管見の限り、通良がそのことを語った文献には出会っていない。そもそも、通良は学校衛生については多弁であり、数多くの論文を書き、また講演記録を残しているにもかかわらず、自身の人生については寡黙なのである。
したがって、通良が医学の道にすすむことになった理由はわからない。推測できることは、父・通卿の影響である。前述したとおり、通卿は修験寺院で家塾を開いていたが、明治初めの神仏分離令と修験道廃止という事態を受けて、東京へ出る決心をした。上京後、通卿は蘭学を学んで医師になった。通良が医者になる決意をしたのは、ちょうど父・通卿が西洋医学を学んでいた時期か、あるいは医院を開業した頃だと思われる。通良は父親にあこがれて、医学の道を志したと考えてよいだろう。一方、父・通卿は、息子の通良には大学で本格的に医学を学んでほしいという期待をもったのではないか。そして、通良自身もそれに応えるべく、勉学に励むことになったと考えられるのである。
(3)小学校を早期に終える
前述したとおり、通良の小学校時代の資料はみつかっていない。それでも、通良が小学校へ通っていたことは確認できる。大学院生だった文部省の嘱託時代、1894(明治27年)に、通良は文部省普通学務局から教科書の文字について調査するように命じられる。その際、通良が感じていたことを、杉浦氏が記述している(注1)。どこの小学校かはわからないが、通良が小学校に通っていたことは、ここから確認できる。
各地の学校を巡回してみて、小学校で使っている教科書を見るごとに、その文字があまりにも細微で、印刷が不鮮明、紙質が粗悪なのに驚いていた。むしろ三島が小学校時代に使っていた教科書の方が、はるかに良好である。
ところで、通良は小学校を早期に終えている。通良は現在でいえば5年生の夏まで小学校へ通って、そこで小学校教育を終えたと考えられる。なぜならば、1877(明治10)年には訓蒙学舎へ入学しているからである(注2)。
通良が成績優秀な少年だったことはまちがいないだろう。当時は小学校でも飛び級のしくみがあったので、通良は早期に卒業したと思われる。そして、医師になるならば早い段階でドイツ語を修得すべきであり、そのためにドイツ語学校へすすむことを選択したと考えられるのである。
(注1)杉浦守邦「三島通良」(10)、『学校保健研究』11(12)、1969年、p.574
(注2)通良が東京大学医学部予科に入学するまでの経歴ははっきりとはわかっていない。
河野二郎編『名士の学生時代』に収録されている、三島通良「月費僅に五十銭 医学博士 三島通良君」によると、通良は訓蒙学舎で1年、東京外国語学校で1年ほど学んでいる。東京大学医学部予科に入学したのが1879(明治12)年12月なので、次のような経歴になるはずである。
1877(明治10)年 9月 訓蒙学舎入学
1878(明治11)年 9月 東京外国語学校入学
1879(明治12)年12月 東京大学医学部予科入学
ところが、三島通良「月費僅に五十銭 医学博士 三島通良君」では、通良自身が訓蒙学舎へ入ったのは13歳(数え年)と記している。これだと訓蒙学舎と東京外国語学校で計2年間学んで、1879(明治12)年12月に東京大学医学部予科に入学することはできない。計算上、数え年12歳で訓蒙学舎へ入ったはずである。したがって、通良は1877(明治10)年の夏までに小学校教育を終えたと判断できるのである。
また、井関九郎監修『大日本博士録 第弐巻 医学博士之部(其之壹)』p.49にも「明治十年東京に於て小学校教育を卒り、同年神田の訓蒙学舎に入り(医学博士三浦謹之助と同窓たり)独逸語を学ぶ」と記されている。
なお、「月費僅に五十銭 医学博士 三島通良君」は、通良がいかに経済的に困窮した学生時代を送ったか、という観点で記されているという制約はあるものの、通良自身が記述した貴重な記録である。ただし、この記録における年齢や年月などには、やや正確性を欠くと思われる部分も散見される。「月費僅に五十銭 医学博士 三島通良君」が収録された『名士の学生時代』が出版されたのは、1915(大正4)年である。通良は49歳で、「重い脳神経衰弱症に罹患」していて静養中だった。推測されることは、細かなことを確認しながら記述をすすめることが難しい精神的な状態にあったのではないか、ということである。
2 訓蒙学舎
通良の時代、まだ教育制度は試行錯誤を繰り返している状態で、極めて流動的であった。中学校令が出されて旧制中学校が整備されるのは、通良が訓蒙学舎に入学した時代よりも少し後のことである。もし通良がもう少しだけ遅く生まれていれば、旧制中学校を目指すことになっただろう。
通良が学んだ訓蒙学舎とは、どのような学校だったのだろうか。明治初期の学校史を研究している神辺靖光氏は、訓蒙学舎について次のように記している(注1)。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』第一巻に元旗本佐久間正節の邸が出てくる。後の連合艦隊参謀・秋山真之が故郷から上京して、兄の騎兵士官・秋山好古と同居する屋敷である。江戸城の西方、外濠近くの麹町土手三番町にこの屋敷があった。(中略)小説にもテレビドラマにも佐久間正節という人間はでてこない。実はこの佐久間は東京大学の前身・開成学校のそのまた前身・第一大学区第一番中学のドイツ語の先生だったのである。(中略)
明治五年八月、南校は第一大学区第一番中学になった。中学長の辻新次は突然、一番中学内に訓蒙学舎という私学をつくると言って佐久間を、この学校のドイツ語教師にした。(中略)
さて訓蒙学舎である。正則〔筆者注:外国人教師が教える生徒を正則生、日本人教師が教える生徒を変則生といった〕についてゆけない生徒を教えた、いわば補習学校である。一番中学は明治六年四月から開成学校(専門学校)に昇格した。訓蒙学舎は依然として開成学校校内にあったが、六年十一月には牛込横寺町に分校をつくり、社中を訓蒙学舎教員に替え、佐久間正節が校長になり、人気の高い英語を教えた。生徒は四〇~五〇人ほどであった。訓蒙学舎が分校をつくった時は開成学校が寄宿舎を新築した時であるから体良く追い出されたのである。かくして一番中学内の補習学校は私立訓蒙学舎になったのである。
つまり、訓蒙学舎は1872(明治5)年に第一大学区第一番中学の授業についてゆけない生徒の補習学校として生まれ、やがて牛込区牛込横寺町〔うしごめよこてらまち〕(現・新宿区横寺町)に分校として転居して(注2)、佐久間正節が校長になったいうのである。通良が通った訓蒙学舎の校舎は「神保町の裏にあつた」(注3)。牛込横寺町からさらに「神保町(現・千代田区神田神保町)の裏」へ転居したと考えられる。「神保町の裏」とは、正確には神田区一ツ橋(現・千代田区神田錦町)である(注4)。
訓蒙学舎の記録は『千代田区教育百年史』(注5)にも残されている。
鈴木重成の「訓蒙学舎」の「私学開業願」を見ると、学科は「仏学、独逸学、数学、和漢学、習字」となっており、教則を見ると生徒を初等・中等・上等の三等に分けている。なお、同舎は一橋通町開成学校構内にその所在をかまえていたようである。生徒数は、明治九(一八七六)年には男女合わせて五九人だが、明治十年には一四四人と激増した。そして、翌明治十一(一八七八)年には一一一人とやや減少したが、明治十二年には「一覧」から姿を消してしまっている。この当時の私立中学校の浮沈のはげしさをよく示しているといってよいであろう。
通良が入学したのは1877(明治10)年だったので、生徒数がピークに達した頃である。訓蒙学舎について、通良自身が書いた文章が残っている(注6)。
私は十三の年に初めて訓蒙学舎と云ふ私立の学校へ入つた。此学校は山村直次郎と云ふ人が校長で、此人は外国語学校の方へも出て獨逸語の先生をして居たが、此處〔ここ〕では重〔おも〕に英語と獨逸語と漢学を教へて居た。其頃独逸語の本などは容易に得られなかつたので、荷が着くと争つて買ひに行つたのだけれど、若し其時に得られなければ外〔ほか〕ではもう迚〔とて〕も得られないと云ふ有様で、本を得るには余程苦心したものである。私は大学の医科へ入る心算〔つもり〕であつたから、何時〔いつ〕迄も恁〔こん〕な私立学校に居ても仕方がないと思つたので、訓蒙学舎は一年許〔ばか〕りで止めて外国語学校へ入った。
そもそも「訓蒙」という言葉は、子どもや初心者を教え諭す、という意味である。まさにドイツ語の初心者であった通良は、訓蒙学舎でドイツ語の基礎を学んだのである。
神辺靖光氏の文章では、訓蒙学舎の校長は佐久間正節であったが、『千代田区教育百年史』では、訓蒙学舎の「私学開業願」を出したのは鈴木重成という人物になっている。そして、通良が残した記録では、校長は山村直次郎である。この校長または責任者の交代の事情についてはよくわからない。なお、山村直次郎については、「明治廿年帝国大学医学部を卒業」(注7)し、後に初代・埼玉県医師会会長となったことがわかっている(注8)。
訓蒙学舎における通良の同窓に、三浦謹之助(1864~1950)がいる(注9)。三浦謹之助は、医師として日本の内科学を確立し、文化勲章を受章した人物である。三浦謹之助は福島県から上京して訓蒙学舎へ入った。その頃のことを次のように回想している(注10)。なお、この対談記録では「訓蒙学舎」のことを誤って、「啓蒙学舎」と記している。
三浦 こちらへ来てから一番初めに行つたのは神保町の裏にあった啓蒙学舎[ママ]で、入学してドイツ語を初めて習いました。それはドイツ語を主に教える私塾です。いきなり外国語学校に入れないから・・・・・・(中略)
緒方 (中略)それで先生はそこにどの位いらしたのですか。
三浦 半年くらいおりましたかね。
緒方 半年でどの位お読みになれるようにおなりでしたか?
三浦 簡単な文章ができる位になつたですナ。
緒方 何人くらいおりました?
三浦 二・三十人が一クラスでしたナ。三島通良という、後に文部省に居つた男、それなんか同級生でした。
(中略)
緒方 二・三十人が一組で、そういうのが幾つあつたでしようか。
三浦 それは一つでしたろう、たぶん。小さい学校ですからね。
緒方 いつでも入れたのですか。
三浦 それはいつでも入れる。外国語学校は一定の時に試験を受けなければ入れない。その準備校ですね。
訓蒙学舎はドイツ語を学ぶための私塾であり、東京外国語学校に入るための準備校であると認識されていたことがわかる。そして、三浦謹之助は訓蒙学舎の同級生に通良がいたと口述している。通良のことは「後に文部省に居つた男」と記憶していたのである。東京大学医学部に入学した学生のほとんどは医学の道にすすんだなかで、文部省へ行った通良は、かなり異色な経歴をもつ人物と思われていたのであろう。
(注1)神辺靖光『続 明治の教育史を散策する』、梓出版社、2015年、p.28~p.30
なお、神辺靖光氏も述べているように、小説『坂の上の雲』、テレビドラマ「坂の上の雲」(2009年~2011年にNHKで放映)には、佐久間正節は登場しない。テレビドラマで佐久間正節の娘・多美の役を演じたのは、女優・松たか子であった。
(注2)九州帝国大学附属彦山生物学研究所編、高千穂宣麿『鴬嶺仙話』、九州帝国大学附属彦山生物学研究所、1946年、p.7~p.8によると、開成中学の構内にあった訓蒙学舎の「本校」は、1874(明治7)年には廃校になっている。
なお、高千穂宣麿は神田一ツ橋にあった訓蒙学舎でドイツ語を学んだ。訓蒙学舎については次のように記している(『鴬嶺仙話』p.7)。
この学校の位置は、後の東京大学の三学部〔筆者注:理学部、法学部、文学部のこと〕の出来た所、今の学士会館のある辺で、大名の旧御殿の様な屋敷であつた。余は先生に「狸はドイツ語で何と言ふか」、「狐は何と言ふか」と尋ねたら、先生は「春風社で出板[ママ]したドイツ語の字引があるからそれを買うて調べなさい」と答へる様な有様であつた。
(注3)通良と訓蒙学舎で同窓であった三浦謹之助の回想(三浦紀彦編『一医学者の生活をめぐる回想 名誉教授三浦謹之助の生涯』、医歯薬出版、1955年、p.17)。なお、同書で三浦謹之助は学校名を「啓蒙学舎」としているが、訓蒙学舎の誤りである。
(注4)三浦謹之助「乱暴は通り物 医学博士 三浦謹之助君―東京医科大学教授―」、河野二郎編『名士の学生時代』、岩陽堂書店、1915年、p.266では、訓蒙学舎の所在地を、以下のとおり、「神田一つ橋」と記されている。
上京の後は神田一つ橋の訓蒙学舎に入り、独逸語を学ぶ、其頃の同級生では三島通良君が居る
(注5)千代田区教育委員会編『千代田区教育百年史 上巻』、千代田区、1980年、p.389~p.390
(注6)三島通良「月費僅に五十銭 医学博士 三島通良君」、『名士の学生時代』p.276~p.277
(注7)大植四郎編『明治過去帳〈物故人名辞典〉』、東京美術、1935年、p.1195
(注8)若林巌編『埼玉県医師会史(第一部・戦前編)』、埼玉県医師会、1967年、p.45
(注9)井関九郎監修『大日本博士録 第弐巻 医学博士之部(其之壹)』p.49
(注10)三浦紀彦編『一医学者の生活をめぐる回想 名誉教授三浦謹之助の生涯』p.17~p.19
(1)東京外国語学校
1878(明治11)年、通良は官立の東京外国語学校へ入学した。東京外国語学校へ入るためには試験を受けて、合格しなければならない。通良は無事、入学試験を突破することができた。
東京外国語学校は、1873(明治6)年11月に開校した(注1)。当時、校地があったのは訓蒙学舎と同じ、神田区一ツ橋であった。
もともと東京外国語学校には、英語学科、仏語学科、独語学科、魯語学科、清語学科があったが、1874(明治7)年に英語科は独立して東京英語学校(後の東京大学予備門)となった。
通良が入学した年の生徒員数は、仏語学科133名、独語学科169名、露語学科58名、清語学科52名であった(注2)。朝鮮語学科の開講は、1880(明治13)年からである。
『東京外国語大学150年のあゆみ』によると、1873(明治6)年の東京外国語学校独語学科下等第4級の授業の時間数は、以下のとおりである(注3)。ただし、( )内は時間数である。
読方(6) 会話(6) 文法(3) 書取(4) 作文(2) 暗誦(3) 算術(6) 合計(30)
東京外国語学校は卒業する生徒が少ない学校であった。退学者が多かったためである。このことについて、野中正孝編著『東京外国語学校史―外国語を学んだ人たち』では、「語学をある程度修得すれば卒業にはこだわらない、こだわる必要がなかった生徒が多かった」と分析している(注4)。まさに通良もその一人であった。
通良は東京外国語学校の時代を、次のように回想している(注5)。同じ学年の生徒でも、学力によって入るクラスがちがっていたようである。
語学校で一緒に居たのは土方久徴だの、加藤駒二などであるが、生徒も今とは余程違つて学力なども更に平均して居ない。同じ級のものでも学科によつて一緒に教へることが出来ないので、私は独逸語の五級―其の頃一年二年と云はず五級四級三級と云つた―へ入つたけれど、漢学の方は大分〔だいぶん〕出来るから直〔すぐ〕に一級へ入つたのである。教師で今覚えて居るのは渡邊廉吉、松浦良春などと云ふ人であるが、フオン・セツケンドルフと云ふ独逸人も居つた。之は当時二十四五の血気の盛んな若い人で生徒と一緒に騒いで遊んだりなんかしてゐた。
当時の通良は、漢学はよくできたが、ドイツ語はあまり得意ではなかったことがわかる。
回想に登場する土方久徴〔ひじかた ひさあきら〕(1870―1942)は、第12代日本銀行総裁になった人物で、通良より4歳年下である。加藤駒二は、東京外国語学校卒業後、文部省に入ったが、やがて教科書を扱っていた金港堂という出版社に勤務し、後に東京書籍の創立に関わった経歴をもつ(注6)。
東京外国語学校の教員だった渡辺廉吉(1854~1925)は、後に大日本帝国憲法の制定に尽力した法学者であり、裁判官として活躍した後に貴族院議員になった。松浦良春は内閣書記官等を務めた。
通良の回想には登場しないが、前述した三浦謹之助も訓蒙学舎から東京外国語学校へすすんでいる。三浦謹之助は東京外国語学校について、次のように口述している(注7)。
三浦 (前略)私は飯田町の伯父の家から啓蒙学舎[ママ]に半年ばかり通つてから、試験を受けて外国語学校に入りました。その時分の外国語学校というのはドイツ語、ロシヤ語、フランス語、英語、スペイン語、イタリー語、支那語・・・・・・各国の言葉を教えたものです。
初めはやはり日本の先生で、それから西洋の先生に就いたのです。初めはセッケンドルフという先生、次はゼンというスイス人に就きました。セッケンドルフというのは、なんでもドイツの皇太子殿下が日本に来られた時にその兄さんが随行して来たぐらいで、相当の家だつたものと見えます。それからゼンというのは、ベルンの人で、ベルン言葉で巻舌で発音しました。
(中略)
緒方 この外国語学校というのは誰でも大学へ行こうという人は入ったのですか。
三浦 そうでもない。大学にはドイツ語の予科というものがあつて、そこからすぐ大学に行く人もある。
緒方 語学ができればですか。
三浦 えゝ、語学ができれば予科に入学できたのです。その頃やはり外国語学校に寄宿舎がありましてね。そこでロシヤ語の人だの、支那語の人だのとつき合つて面白かつたのですね。(中略)
緒方 生徒は沢山居りましたか、その頃。
三浦 えゝ、相当居りました。
緒方 今の外国語学校は程度が高くなつているようですが、その頃は語学だけをやつたわけですか。
三浦 その時は語学だけです。
緒方 日本人の先生はどういう人でしたか。
三浦 初めは渡辺廉吉という人にドイツ語を習いました。この人は伊藤博文さんが日本からドイツへ憲法をしらべに行つた時について行つた人で(中略)この人が外国語学校の先生から後に法科をやりましてね、法学士になつて伊藤さんが憲法調べにドイツに行つた時に、ドイツ語ができるのでついて行つたのです。(後略)
教員だったセッケンドルフや渡辺廉吉については、通良の記憶と重なっている。
三浦の回想では、寄宿舎における交友関係について触れられている。だが、家庭が豊かではなかった通良には、寄宿舎へ入る余裕はなかった。自宅から通学していたのである。笠幡村で生まれ育ち、寄宿舎にも入れなかった通良は、おそらく学校と家との間を往復して、時間があれば勉学に励む少年だったのではなかったか。しかもドイツ語の上達に時間がかかっていることへのあせりもあったであろう。目標としていた東京大学医学部で学んでいくためには、ドイツ語の習得は必須であった。生真面目な通良のことである。必死の努力をしていたはずである。東京外国語学校での1年間は、瞬く間に過ぎ去っていったことだろう。
(注1)野中正孝編著『東京外国語学校史―外国語を学んだ人たち』、不二出版、2008年、p.7~p.14
(注2)東京外国語学校編『東京外国語学校沿革』、東京外国語学校、1932年、p.46~p.47
(注3)東京外国語大学文書館編『東京外国語大学150年のあゆみ』、東京外国語大学出版会、2023年、p.51
(注4)野中正孝編著『東京外国語学校史―外国語を学んだ人たち』p.45
(注5)三島通良「月費僅に五十銭 医学博士 三島通良君」、『名士の学生時代』p.277~p.278
(注6)東京書籍編『物故役員並功労者追悼記念』、東京書籍、1931年、p.7
(注7)三浦紀彦編『一医学者の生活をめぐる回想 名誉教授三浦謹之助の生涯』p.19~p.20
(2)三島家 第一の悲劇
笠幡村をあとにして東京へ出てきたとき、三島家は父・通卿、母・ふき、通良、妹・とし、弟・道堅の5人家族だったと思われる。その後、1877(明治10)年に弟・通寿が生まれる。三男だった通寿は、いつのことかはわからないが、吉沢家に養子に出される。吉沢家がどういう家であったのかはわからない。すでに通良と道堅という2人の男子がいたため、三男を養子に出しても、家の跡取りの心配はないと考えたのだと思われる。1878(明治11)年には、妹・ヨシが生まれる。養子に出した通寿を除いて、三島家には、通良、とし、道堅、ヨシという4人の子どもがいた。
ところが、通良が東京外国語学校で学んでいた1879(明治12)年の夏、7月にヨシ、8月に道堅が相次いで亡くなった(注1)。道堅は6歳で小学校1年生、ヨシはまだ0歳児であった。
2人の子どもが亡くなった原因は伝わっていない。ただ、この年は日本各地でコレラが大流行していた。「明治10年代にはコレラが大流行し、1879(明治12)年には、患者数16万人、死亡者数は10万人を超え、明治最大規模のものとなった」のである(注2)。道堅とヨシの死は、コレラが原因だった可能性が小さくない。
父・通卿は元医者である。だが、もしコレラが相手だったとすれば、どうすることもできなかっただろう。一家が深い悲しみに襲われていたことは想像に難くない。
通良はこの夏、東京大学医学部予科の受験を突破するために、受験勉強に明け暮れていた。弟と妹の死に直面して精神的には苦しかったはずだが、それを乗り越えて11月の入試に臨み、合格する。だが、進学が決まった通良が、弟と妹の死を忘れることはなかっただろう。
この年から10年後、医術開業免許を手にした通良は、大学院の小児科教室で研究に従事することになる。そして、その2年後には小児科の医院を開設する。なぜ通良は小児科の道へすすんだのか。詳しいことはわからない。筆者の想像でしかないのだが、その選択には、弟と妹の命を救えなかった無念が影響しているように思える。その無念さは通良ひとりのものではなく、父・通卿はもとより、母・ふきや妹・としの4人の家族で共有されていたものだったのではないだろうか。
(注1)杉浦守邦「三島通良」(4)、『学校保健研究』11(3)、p.144
(注2)厚生労働省のホームページに掲載されている『平成26年版 厚生白書』、p.4より。
(https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/14/dl/1-01.pdf)
4 東京大学医学部予科
(東京大学予備門)
(1)入学
1879(明治12)年12月、通良は東京大学医学部予科に入学した。通良は当時を次のように振り返っている(注1)。
外国語学校には一年許〔ばか〕り居た丈〔だけ〕で、それから大学医学部の予科へ入つた、此予科と云ふのが恰度〔ちょうど〕今の中学校であらう。数学や漢文が澤山あつて、まあ其方〔そのほう〕はよかつたけれど、独逸語が出来なかつたために初めのうちは始終〔しじう〕尻から三番位に居つた。学生と云つても今とは非常な懸隔〔けんかく〕で、靴など穿〔は〕いて居るものは殆〔ほと〕んどなく、下駄を穿き多くは麻裏草履を穿いて居たものである、勿論外国の本などは容易に買へなかつたのだけれど兎〔と〕に角要〔い〕る丈の本は家から買つて貰つて、其外に小遣として家から貰つた金は僅かに月々十銭宛〔づゝ〕、其後二十銭に増して貰つたけれど、何〔いづ〕にしても是丈〔これだけ〕で総〔すべ〕てを弁じて居た。五級から四級へ移り一月に五十銭貰つたことがあるけれど其時に親父が死んだので、此五十銭が私の学生時代に於ける小遣銭の最多額であつた。だから書生などにもよく云ふのであるが、勿論今とは金の価〔あたひ〕も違つて居たのだけれど、兎に角高等学校の生徒が一月に五十銭の小遣でやつて居た。私の学生生活で、
■人と違つて居るのは 始終家から通つて居て、嘗〔かつ〕て下宿や寄宿舎に居つたことのないことであるが、学校へ持つて行く弁当なども極めて質素なもので、又学校へ行つても食堂の如きものはなくて、今も残つて居る彼〔あ〕の枳殻寺〔からたちでら〕のボロ長屋へ正午〔ひる〕になると小使が擔桶〔になひおけ〕で湯を運んで来て、皆な彼の汚い處〔ところ〕へ行つて昼飯を食つたもので、あれがまあ食堂であつた。
この頃、通良はドイツ語が苦手であった。そのせいで成績は「独逸語が出来なかつたために初めのうちは始終〔しじう〕尻から三番位に居つた」という。これを克復しなければ医学の道にすすむことはできない。なぜならば、東京大学医学部の講義は、その多くがドイツ語で行われていたからである。
また、通良の家は貧しく、ぎりぎりの生活をおくっていたようである。役人になった父・通卿の給与は少なく、通良に充分な小遣いをあげることもできなかった。そのため、寄宿舎へ入ることもできなかった。この頃に東京大学医学部予科へ通っていた学生の回想などには、寄宿舎生活で得た友や人脈の大切さを訴えているものも少なくないが、通良には無縁な世界であった。お金のない通良は、放課後に仲間と遊びに行くこともできずに、家と学校を往復して、ひたすら勉学に励む生活をしていたのだろう。何よりも、ドイツ語の遅れを取り戻す必要があったのである。
(注1)三島通良「月費僅に五十銭 医学博士 三島通良君」、『名士の学生時代』p.278~p.279
(2)東京大学医学部予科
東京大学医学部予科とは、どんな学校だったのだろうか。校舎は現在の東京大学本郷キャンパス内、本郷区本郷本富士町(現・文京区本郷)にあった。学年は五等(乙・甲)、四等(乙・甲)、三等、二等、一等の順で学び、修業年限は基本的には5年間である(注1)。ただし、優秀な新入生は五等からではなく、四等に入学することもあった。さらに、学力が高い学生には飛び級のしくみがあったため、必ずしも5年間学ぶとは限らない。入学当初はドイツ語があまり得意ではなかった通良は、5年間をかけて卒業している。
通良より1年後に東京大学医学部予科に入学し、後に「耳鼻咽喉学の祖」と称された医学者の岡田和一郎〔おかだ やすいちろう〕(1864―1938)の伝記、『岡田和一郎先生傳』には、東京大学医学部予科の入試について、次のように記されている(注2)。ちなみに、岡田和一郎は日本に初めて白衣を導入した人物としても知られている。
尚ほ当時、医学部予科の入学試験には百二十名の募集人員に対し六百名からの志願者があつて五対一の割合であり、試験は(中略)数学と漢籍で之を決め、独逸語の出来如何によつて之を四級に分つたといふ。
通良が受験した年の倍率はわからないが、その翌年は5倍の倍率であったことがわかる。合否は数学と漢学によって決まり、ドイツ語の実力によって、生徒は1級から4級に振り分けられた。医学部予科の入学試験科目は以下のとおりである(注3)。
読書:日本外史 算術:分数小数比例 独逸語:作文反譯 書取:独逸文 体格検査:同
芳賀榮次郎(1864―1953)は、レントゲン技術を日本へ導入した陸軍軍医である。通良の2年前に東京大学医学部予科に入学している。芳賀榮次郎は次のような記述を残している(注4)。
父の出征中、東京大学医学部予科の生徒募集を聞いて試験を受け合格した。年令十四才である。入学者七十名で、年令など不同であつた。入学試験は漢学のみで、独逸語は唯々参考のために試験されたが、予は未就学であり、答案を出さなかつた。
このときの入試に数学がなかったかどうかは確認できていないが、ドイツ語が合否には関係がなかったことは確かなようである。
では、入学後にはどのような授業が待っていたのだろうか。『岡田和一郎先生傳』には、東京大学医学部予科の概要が次のように記されている(注5)。
かくて、学年は十二月一日に始まり、翌年の十一月三十日に終り、冬学期は十二月一日より翌年五月三十一日に至り、夏学期は六月一日より十一月三十日に終る。
今、各科の課程を表示すると次の如し。
医学予科課程(明治十三年乃十四年)
〇第一年 五等 下級
ドイツ習字(三時) ドイツ綴字(三時) 算術(十二時) ドイツ読方(六時) 譯読(六時) 和漢学(六時)
〇第一年 五等 上級
ドイツ読方(六時) ドイツ文法(四時) ドイツ作文(五時) 地理学(三時) 分数(十二時) 和漢学(六時)
〇第二年 四等 下級
ドイツ文法(五時) ドイツ作文(五時) 地理学(二時) 分数問題(六時) 分数(六時) 和漢学(六時)
〇第二年 四等 上級
ドイツ文法(六時) ドイツ作文(五時) 地理学(三時) 比例(六時) 小数(六時) 和漢学(六時)
〇第三年 三等 下級
独逸語学(十二時) 算術(五時) 地理学(四時) 幾何学(四時)
〇第三年 三等 上級
独逸語学(十二時) 算術(五時) 博物学(二時) 地理学(四時) 幾何学(四時)
〇第四年 二等 下級
独逸語学(十時) 羅甸語学(四時) 博物学(三時) 代数学幾何学(七時)
〇第四年 二等 上級
独逸語学(十時) 羅甸語学(四時) 博物学(三時) 代数学幾何学(七時)
〇第五年 一等 下級
独逸語学(八時) 羅甸語学(四時) 動、植、鉱物学(八時) 代数学(四時)
〇第五年 一等 上級
独逸語学(八時) 羅甸語学(四時) 動、植、鉱物学(八時) 代数学対数三角術(四時)
この頃の東京大学医学部予科は12月から始まり、11月で終わった。2学期制で、冬学期は12月から5月まで、夏学期は6月から11月までであった。
教育課程がドイツ語重視であることは一目瞭然である。予科を卒業して本科(東京大学医学部)へすすめば、ほぼドイツ語の講義ばかりになることを前提に、東京大学医学部予科の教育課程は組み立てられていた。そして直接、医学に関する授業は実施されていない。ドイツ語の学習と基礎学力を涵養することが、東京大学医学部予科の目的だったのである。通良が「此予科と云ふのが恰度〔ちょうど〕今の中学校であらう」(注6)と、旧制中学校のようなものだと記述していることにも頷ける。
東京大学医学部予科の授業が、本科に入学する準備に重点が置かれていたことは、芳賀榮次郎の記述からも窺い知ることができる(注7)。
予科では主として独逸語で教育され、和漢文を除いて他の学科は日本人の教師でも独逸語を常用し、教室では日本語を封ずると云ふ仕方であつた。つまり本科の専門教育に入つた際、独逸人の講義を能く了解し得る素地を作るにあつた。
明治期のドイツ語教育を研究している上村直己氏は、東京大学医学部予科について、次のように述べている(注8)。
予科では本科(同じく五年ですべてドイツ人教師が担当した)を修めるための基礎科目が置かれていたが、中でもドイツ語が最も重視された。文字通りドイツ語漬けと言ってよい。学生はドイツ語の勉強で明け暮れたであろう。従って学生の中には医者になるつもりはなく、ただドイツ語を学ぶために予科に入学した者も多かった。彼らは本科に進む前に退学した。中途退学者が多かった点では東京外国語学校(旧)と同様であった。(中略)一等から三等までは外国人教師が担当し、四等、五等は日本人教師が担当した。
通良も「ドイツ語漬け」の日々をおくったことはまちがいないであろう。また、上村直己氏は中途退学者が多かったことにも言及している。退学者が多かったことは、『東京大学百年史 通史一』にも記述されている(注9)。
東京医学校時代同様、予科の中途退学生は非常に多かった。殊に明治十一年三月に年限を五年に延長してからは四等から三等に進級する過程で大量の退学者を出すこととなった。例えば、明治十一年十一月末現在予科四等生は一四〇名在籍したが、翌年度の三等生は五五名を数えるのみである。その原因は本人の都合、規則違反等のほか、進級の可否を決する学期試業の厳格さ(「数回ノ試業ニ学力ノ進歩セザル者ハ退学セシム」)にあったようである。しかしながらそれ以上に意外なのは予科卒業生の本科(医学、製薬学とも)への進入学者数の激減である。先の年度でみると一等予科生四八名に対し次年度の五等本科生は二五名であった。
上村直己氏の指摘のとおり、「ただドイツ語を学ぶために予科に入学した者も多かった」ことが数字上でも裏づけられているのである。
(注1)東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史 通史一』、東京大学、1984年、p.529によれば、東京大学医学部予科が5年間の修業年限になったのは、1878(明治11)年のことである。
(注2)岡田和一郎先生伝記刊行会編『岡田和一郎先生傳』、日本医事新報社、1942年、p.20
(注3)岡田和一郎先生伝記刊行会編『岡田和一郎先生傳』p.20
(注4)芳賀榮次郎『芳賀榮次郎自叙傳』、1948年、p.18
(注5)岡田和一郎先生伝記刊行会編『岡田和一郎先生傳』p.21~p.22
(注6)三島通良「月費僅に五十銭 医学博士 三島通良君」、『名士の学生時代』p.278
(注7)芳賀榮次郎『芳賀榮次郎自叙傳』p.21
(注8)上村直己「ドイツ語学者 吉田謙次郎」、『日独文化交流史研究』2008号(1-22)、2008年、p.6
(注9)東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史 通史一』p.530
(3)三島家 第二の悲劇
三島家は1880(明治13)年7月に麹町区飯田町(現・千代田区飯田橋)に転居した(注1)。それ以前、東京のどこに住んでいたのかわかっていないのであるが、転居の理由は通良の通学を考えてのことではないかと思われる。東京大学医学部予科があった本郷区本郷本富士町へ通学するためには、麹町区飯田町は比較的近い場所である。
ところが、通良が東京大学医学部予科に在学中に、父・通卿が病死する。脳溢血によって急死したのである(注2)。父・通卿が死去したのは、1883(明治16)年、通良が予科二等(4年)で17才のときのことであると推察される(注3)。
通良は父を失った悲しみのなかにいたが、そればかりではなく、経済的にも逼迫する状況に追い込まれることになった。通良は、当時のことを次のように記述している(注4)。
(前略)然〔しか〕るに其父が私の四級になつた時死んで終〔しま〕つたのであるからもう何〔ど〕うすることも出来ない。私は学校へ行く處〔どころ〕か、一家は、
■今後如何にして生活 して行く可きかと云ふのが眼前に横〔よこたは〕つて居る大問題だ、けれども当座はそんな分別さへ付かず、只管〔ひたすら〕父を失つた悲嘆に暮れて居ると、親類や知己が集つて来てお前は是以上高等の教育を受けるゝとは迚〔とて〕も出来ないのだから役所の給仕かなんかになれと云ふのである。けれど私は今途中で止めるのは如何〔いか〕にも残念だから、石に噛〔かじ〕り付いても学校丈〔だけ〕は卒業しやうと決心した。其頃は独逸語も余程進歩して居たので、先づ自分の家へ塾を開いて初歩の独逸語を教へることにし一人から月謝を五十銭位づゝ取つたのであるが、六七人生徒があつたから其収入が三円か三円五十銭位あつた。家に貯蓄と云ふ程のものはなかつたけれど、兎に角それを生計の足〔たし〕にして私は学校を続けて居たのである。
親類や知己からは、学校を退学して働くべきだと意見されたようである。三島家の家計は、父・通卿の生存中でも決して豊かではなかった。その上、一家の大黒柱を失ったのである。親類の大人たちが訳知り顔で「お前は是以上高等の教育を受けることは迚〔とて〕も出来ないのだから役所の給仕かなんかになれ」と諭したことは、決して非常識な判断ではなかったといえるだろう。
だが、通良は「石に噛〔かじ〕り付いても学校丈〔だけ〕は卒業しやうと決心した」。これは通良ひとりの決断ではなく、母・ふき、妹・としとも相談してのことであったと思われる。通良は初歩のドイツ語塾を自宅で開いた。それができるくらいのドイツ語の実力が身についていたのである。通良の稼ぎに加えて、わずかに残っていた貯金で当面の生活を工面していたようである。それだけでも足りないときは、母・ふきが質屋通いをしたらしい。杉浦守邦氏は次のように記述している(注5)。
しかし家計は常に苦しく、時にはその日の生活費にも困ることがあって、母ふきが自分の帯を質において、子どもの勉学を助けたこともあるという。後年三島の独立不覊の精神はこうして養われたものらしい。
こうして家計をやり繰りしながら、通良は1884(明治17)年11月に東京大学予備門を卒業し、東京大学医学部に入学することになる。
(注1)杉浦守邦「三島通良」(18)、『学校保健研究』12(12)、p.582
(注2)杉浦守邦「三島通良」(1)、『学校保健研究』10(2)、p.75
(注3)父・通卿が亡くなった年については、はっきりとは断定できない。杉浦守邦氏は「三島通良」(4)および「三島通良」(18)で「1883(明治16)年6月27日」と記している。日付まで記載されているので、杉浦氏は戸籍等の記録をもとにして記述したと考えられる。また、『大日本博士録 第弐巻 医学博士之部(其之壹)』でも、「明治十六年の夏父を亡ひ」とあるので、通卿が死去したのは1883(明治16)年、通良が17歳のときのこととされてきた。
ところが、通良自身が記した「月費僅に五十銭 医学博士 三島通良君」には、次のような記述がある。
五級から四級へ移り一月に五十銭貰つたことがあるけれど其時に親父が死んだ(p.279)
父が私の四級になつた時死んで終〔しま〕つた(p.280)
通良は、父親が死んだのは予科四等(2年)のときだと述べている。その場合、通卿の死は、杉浦氏や『大日本博士録 第弐巻 医学博士之部(其之壹)』が記していた1883(明治16)年ではなく、その2年前の1881(明治14)年、通良が15歳のときだったことになる。
どちらの記述が正しいのだろうか。前述したように、「月費僅に五十銭 医学博士 三島通良君」を記した時期の通良は、「重い脳神経衰弱症に罹患」し、静養中だった。必ずしも、正確な記述ができる状態ではなかったかもしれない。
筆者は、父・通卿が亡くなったのは、やはり1883(明治16)年ではないかと考えている。理由の一つは、杉浦氏の記述は正確な公的な記録をもとにしている可能性が高いことである。また、もう一つの理由は、父の死後、通良がドイツ語の家塾をすぐに開いたところにある。通良は「其頃は独逸語も余程進歩して居たので、先づ自分の家へ塾を開いて初歩の独逸語を教へることにし」たのだという。この「独逸語も余程進歩して居た」という記述を考えると、通卿の死を予科四等(2年)のときだと考えるのは、無理があるのではないだろうか。予科に入学した頃、「独逸語が出来なかつたために初めのうちは始終〔しじう〕尻から三番位に居つた」通良が、その翌年に「独逸語も余程進歩して居た」とは考えにくい。したがって、通卿が亡くなったのは、1883(明治16)年と考えるのが妥当ではないかと思われる。
なお、杉浦氏の「三島通良」(1)~(18)は、通良を知るためのもっとも重要な資料である。ただ残念なことに、通良のプライベートについての記述に関しては、ほとんど出典が書かれていない。父・通卿が死去した年月日についても、どんな資料に依拠したのか記されていないため、その記述の正確性を検証することが困難なのである。
(注4)三島通良「月費僅に五十銭 医学博士 三島通良君」、『名士の学生時代』p.280~p.281
(注5)杉浦守邦「三島通良」(1)、『学校保健研究』10(2)、p.76
(4)東京大学予備門へ改称
1882(明治15)年6月、東京大学医学部予科は、東京大学予備門分黌〔ぶんこう〕学科に改称された。通良が三等(3年)のときのことである。東京大学の法学部、理学部、文学部へすすむ者は、東京大学予備門での課程履修が義務づけられていた。一方、同じ東京大学でも、医学部だけは東京大学医学部予科で学んだ後に、東京大学医学部(「予科」に対して「本科」と呼ばれていた)へ入学していた。同じ東京大学といっても、医学部の校舎は本郷区本郷本富士町(現在の東京大学本郷キャンパス内)にあったのに対して、法学部、理学部、文学部の校舎は神田区一ツ橋にあった。東京大学という校名で統一されてはいたが、事実上は2つの学校の連合体にすぎなかった。
だが、4学部を東京大学として運営していくためには、その予備教育機関である東京大学予備門と東京大学医学部予科が別々に存在していることは許されなくなっていた。『東京大学百年史 通史一』には、次のように記されている(注1)。
予備門は法理文三学部進学者のための独占的予備教育機関であったが、東京大学予備門という名称にもかかわらず、医学部は別に予科を設けて予備教育に当てていた。この状態では法理文医の四学部を統一して管理運営するのに支障を生ずるために、予備教育を担う部分の統合管理が求められるようになった。
こうして、東京大学医学部予科は東京大学予備門へ吸収合併された。ただし、この時点では校舎も教育課程も統合されたわけでない。学校管理は統合されたものの、「学科課程等の統合はまだ先のことであった」(注2)。生徒たちにとっては、学校の名称が変更されたにすぎなかっただろう。その名称についても、紆余曲折の末に、従来の東京大学予備門を東京大学予備門本黌〔ほんこう〕学科、東京大学医学部予科を東京大学予備門分黌学科と呼ぶことになった。
ただし、学科課程には若干の変更があった。『東京大学百年史 通史一』には、次のようにある(注3)。
次に旧医学部予科学科課程と分黌学科課程とを比較すると、二、三の異同を指摘できる。まず第一に注目されるのは、旧予科課程になかった修身学(「論語ニ拠リテ修身ノ道ヲ教誨ス」)が全級を通して新設されたことである(週一時間)。このほか旧予科にみられなかった科目として、史学(本朝歴史及び万国史)、画学(自在画学)が第四級から第二級まで、物理学、化学が第二級にそれぞれ設けられている。(中略)最後に分黌学科課程から消えた科目がひとつある。博物学がそれである。
修身学が全学年へ導入されたこと(注4)と、二等(4年)に物理学と化学が置かれたこと、さらに博物学が廃止されたことが大きな変化であった。
(注1)東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史 通史一』p.567~p.568
(注2)東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史 通史一』p.571
(注3)東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史 通史一』p.574
(注4)修身学が必修化された背景について、山本正身『日本教育史―教育の「今」を歴史から考える―』、慶応義塾大学出版会、2014年の記述をもとに確認しておきたい。そこには、教育をめぐる路線の対立があった。1880(明治13)年に改正された教育令について、山本正身氏は次のように述べている。
(前略)一八八〇(明治一三)年末の「教育令」改正により、教育政策の基本方針は、一方で中央集権的教育体制の強化(文部卿・地方長官の権限強化)、他方で復古主義的動向の台頭(修身の重視・尊王愛国精神の尊重)、という性格を帯びていくことになった。(p.105)
山本正身氏によれば、明治政府は「教育を国家近代化を担う人材の養成とし、その近代国家の教育は科学に基づく合理的法則の探求に重点を置き、国家が道徳を管理・統制することは望ましくない」(p.113)とする考え方をとっていたが、明治天皇をはじめとする宮中派は「教育を天皇制国家における臣民の育成とし、それゆえその教育は仁義忠孝を基軸とし、わが国古来の道徳を明らかにすることを国家の重要な役割」(p.113)と主張していた。改正「教育令」は、両者の対立を反映したものであった。
ただし、復古主義的動向の台頭といっても、「儒教道徳を基軸として教育の理念自体を転換させるような明確な方針が、強力に打ち出されたわけではなかった」(p.115)。だがその影響は、東京大学予備門の教育内容にも及んだのである。
(5)卒業
1884(明治17)年11月、通良は東京大学予備門分黌学科を卒業した。三島家は経済的には困窮していたが、通良本人の努力はもとより、母・ふき、妹・としの協力もあって、卒業することができたのである。
通良とともに東京大学予備門分黌学科を卒業した岡田和一郎の伝記、『岡田和一郎先生傳』には、彼らの卒業について、次のように記されている(注1)。岡田和一郎は飛び級をして4年間で卒業したことや、同級生に通良がいたことがわかる。
かうして、明治十七年、先生の年二十一歳の時、明治十三年十一月医学部予科五等の乙に入学して以来、在学四ケ年にして、東京大学予備門分黌を卒業して医学部本科に進んだのであつたが、当時、先生の同級生として共に卒業した人々は左記の四十六名であつた。
明治十七年東京大学予備門分黌卒業者(五十音順)(第一高等学校同窓会員名簿による)
安倍朝五郎(岡山) 吾妻慶治(秋田) 井上槌蔵(兵庫) 伊藤隼三(鳥取)
大高信蔵(大阪) 大村秀畝(滋賀) 太田耒夫(石川) 岡田和一郎(愛媛)
神村兼亮(山口) 北川乙治郎(滋賀) 北村精造(東京) 栗本秀二郎(東京)
近藤楢太郎(大阪) 澤邊祐尚(東京) 下平用彩(石川) 白江規矩三郎(長崎)
鈴木徳男(兵庫) 鈴木文雄(東京) 關場不二彦(北海道) 田村貞策(宮城)
竹村一詮(新潟) 谷口長雄(愛媛) 筒井八百珠(三重) 坪井速水(岐阜)
鶴田禎次郎(佐賀) 戸田成年(福岡) 遠田淸(東京) 中澤信四郎(兵庫)
中村桃次郎(岐阜) 永井壽(東京) 林曄禮(愛媛) 平井毓太郎(三重)
平松駒太郎(和歌山) 逸見文綱(富山) 町田茂太郎(兵庫) 丸茂文良(山梨)
三島通良(埼玉) 水野欽(静岡) 山口秀高(東京) 山田常太郎(和歌山)
山本愼(三重) 湯原元一(佐賀) 吉村源太郎(静岡) 和辻春次(兵庫)
若杉喜三郎(新潟) 渡邊恭三(宮崎)
通良が埼玉出身となっているのは、まだ笠幡村に地所があり、そちらが本籍になっていたためだと考えられる。
通良は東京大学予備門分黌学科を卒業して、いよいよ東京大学医学部で医学を学ぶのである。
(注1)岡田和一郎先生伝記刊行会編『岡田和一郎先生傳』、p.30~p.31
なお、明治十七年東京大学予備門分黌卒業者については、谷口長雄先生伝記編纂会編『谷口長雄傳』、谷口長雄先生伝記編纂会、1937年、p.21に掲載されている名簿の方が正確であると思われるので、そちらの名簿に依拠して記述している。
通良が東京大学医学部に入学した頃には、日本の医学の中枢となる人材を育成するシステムがほぼ構築されていた。東京大学医学部予科(予科)で5年間、東京大学医学部(本科)で5年間、計10年間をかけて医師を育成するカリキュラムが用意されていたのである。
日本の医学の教育制度を確立したのは、ドイツ人医師・ミュルレル(1824―1893)である。明治維新後、政府は西洋医学による医療制度の確立をめざすことになる。伝染病に対しては、従来の漢方医はあまりに無力であった。一方、西洋医学は近世から長崎を通じて蘭学という形で広まり、蘭方医たちは天然痘に対して、牛種痘という手段で立ち向かっていた。明治政府の高官たちにとって、西洋医学の優位は当然のことであり、次の課題はどの国の医学をモデルにすべきか、ということであった。
明治政府はドイツ医学を導入することを選んだ。『東京大学医学部百年史』には、次のように記されている(注1)。
(前略)政府では、上述のドイツ医学がヨーロッパの医学の精髄であることをみとめ、これを「輸入」してわが国の医学の振興をはかろうとした。(中略)
この結論は、当時の世界の医学の動向から見ても、まさに正しい。
1870(明治3)年、明治政府はドイツ人医師の招聘を北ドイツ連邦(プロイセン中心の連合政府で、1871年のドイツ統一の主体)に依頼した。この依頼に応じて、ドイツ政府によって1872(明治5)年に日本に派遣されたのが、ミュルレル(外科)と補佐役のホフマン(内科)であった。
ミュルレルは、ドイツの近代的な医学教育制度を日本に導入することをめざした。西洋流の一斉教育に抵抗する日本人も少なくなかったが(注2)、ミュルレルは頑固に自説を曲げなかった。当初、ミュルレルは8年間で医学を学ぶカリキュラムを構想した。吉良枝郎氏は次のように述べている(注3)。
各学年末に学科試験を行い、これに合格しないと次の学年へは進めず、落第した者は旧学年に留年する。全学年を終えた後に行われる大試験に合格した者には、あらゆる医学関係の官職につく資格を証する合格証書が与えられる。
第五学年、すなわち本科二年までドイツ語の授業があり、ドイツ語で教育するという意志を鮮明にしている。ミュルレルらは、どの生徒も三年たてば通訳なしでドイツ語の講義がわかり、五年後にははっきりかつ正確に口頭でも筆記でもドイツ語で表現する力がつくことを目標にしたといっている。
寺子屋的な個別教育が中心であった当時の日本において、一斉教育と学年・学期制を軸とする近代的なカリキュラムの導入は、斬新な提案であった。さらにミュルレルは、医学教育の長期的な提案も行う(注4)。
当初ミュルレルは、大学に入る前の進学課程として医学部前の七年、大学医学部における五年の教育期間、その研修を終えた上で本人の能力と学校の必要を勘案して、卒業生を個別的に三年間ドイツに留学させ講師の資格をとらせることを計画していた。ミュルレルらの案を聞いて、日本人教員達はそんな長期の修学期間はとても考えられないと大声をあげて驚いたり、嘲笑うように爆笑したという。
東京大学医学部は、彼の案通り、彼の来日後八年目の明治十二年、卒業生三名をドイツに医学留学生として派遣した。時代の変遷を考えれば、平成の現在のわが国の医学教育課程と大差はない。ミュルレルの考えは、極めて先見性を備えていたといえよう。
このミュルレルの構想について、入沢達吉(1865-1938)は次のように述べている(注5)。入沢達吉は通良よりも1年早く東京帝国大学医科大学を卒業して、ベルツに師事して内科医となった人物である。なお、ここでは入沢達吉は予科に7年間在籍していたように記述されているが、実際には6年間で卒業している。成績優秀だったので、飛び級をしたものと思われる。
ミュルレルの当初から立てた案では、予科を七年とし本科を五年とし、-筆者の如きも此案の通りの年数を赤門内で蹈んで来たものである―卒業までに十二年を要し、卒業後三年間独逸に留学せしめ、都合十五年にして日本人の教授を作り、之を外国人の教師に代ゆる計画であつた。此ミュルレルの案が出たときは、人皆其前途の遼遠を笑つたが、事実は予定の通りに運び、明治十二年(一八七九年)の医学部卒業生が三人初めて独逸に留学し、三年を経て帰朝して大学の教授となり、西洋人の教師に代つたのであつた。
ミュルレルの構想は、留学期間も含めて15年間の教育によって、当初はドイツ人のお雇い外国人で構成されていた医学部の教授陣を、少しずつ日本人に代えていくというものであった。そして、ミュルレルの構想のとおりに事はすすんでいったのである。ドイツ人医師は徐々に減っていった。通良が学んでいた時代には日本人の教授も多くなりつつあった。最後まで日本に残った2人の医師が、ベルツとスクリバである。
通良の時代には「大学に入る前の進学課程として医学部前」、つまり医学部予科は7年ではなく5年であったが、基本的にはミュルレルがつくり上げた教育方針のもとで学ぶことになる。
(注1)東京大学医学部創立百年記念会/東京大学医学部百年史編集委員会編『東京大学医学部百年史』、
東京大学医学部創立百年記念会、1967年、p.16
(注2)吉良枝郎「明治期におけるドイツ医学の受容と普及―東京大学医学部外史・補遺」、坂井建雄編『日本医学教育史』、東北大学出版会、2012年、p.43には、次のような記述がある。
自学、自習を主とし、音読して内容を暗記すると云う伝統的学習法で育てられてきた医学生はもちろん、教員にも、この教育法の違いはきわめて大きな衝撃であったろう。
(注3)吉良枝郎『明治期におけるドイツ医学の受容と普及―東京大学医学部外史』、築地書館、2010年、p.46
(注4)吉良枝郎『明治期におけるドイツ医学の受容と普及―東京大学医学部外史』p.46~p.47
(注5)入沢達吉先生生誕百年記念文集編集同人編『入沢達吉』、入沢達吉先生生誕百年記念会、1965年、p.212
(2)東京大学医学部の教育課程と教授陣
『岡田和一郎先生傳』によると、東京大学医学部のカリキュラムは次のようなものだった(注1)。本科では、岡田和一郎と通良は同級生である。
医学本科課程(明治十三年乃至十四年)
五等 第一年
(下級)物理学(四時)、化学(四時)、医科動物学(四時)、解剖学(十二時)
(上級)物理学(四時)、化学(四時)、医科植物学(四時)、各部解剖学(六時)、組織学(四時乃至六時)
四等 第二年
(下級)物理学(四時)、化学(四時)、実地解剖学(十二時)
(上級)物理学(四時)、化学(四時)、顕微鏡用法(六時)、生理学(十二時)、分析学実地演習(六時)
三等 第三年
(下級)外科総論(四時)、内科総論(四時)、生理学(十二時)、生理学実地演習(六時)
(上級)外科総論(四時)、内科総論及病理解剖(四時)、薬物学毒物学(六時)、製薬学実地演習(六時)
二等 第四年
(下級)外科各論(六時)、内科各論(六時)、外科臨床講義(六時)、内科臨床講義(六時)
(上級)外科各論(六時)、病理各論(六時)、外科臨床講義(六時)、内科臨床講義(六時)
一等 第五年
(下級)外科各論及眼科学(六時)、病理各論(六時)、外科臨床講義(六時)、内科臨床講義(六時)
(上級)外科各論及眼科学(六時)、病理各論(六時)、外科臨床講義(六時)、内科臨床講義(六時)、外科手術演習
東京大学医学部(本科)も東京大学医学部予科(予科)と同じく二学期制で、冬学期と夏学期に分かれていた。7月11日から9月10日までは暑中休暇になっている(注2)。予科ではドイツ語の習得と基礎学力の涵養に力が注がれていたが、本科では、医学そのものを学ぶのである。
医学部が発足してからしばらくは、講義はすべてドイツ語であったが、通良の時代には、ミュルレルの構想のとおりに成績優秀だったドイツ留学生が帰国して、日本人の教授も増えつつあった。
『岡田和一郎先生傳』には、1881(明治14)年9月~1882(明治15)年8月の教職員の名簿が載せられている(注3)。
東京大学医学部教員
教授
病理学 兼脚気病院審査委員 三宅秀
外科臨床講義 橋本綱常
外科論理 足立寛
生理学 永松東海
外科臨床講義 桐原眞節
内科臨床講義 樫村清徳
解剖及組織学 田口和美
外国教師
内科臨床講義 エルウヰン・ベルツ
生理学 エルンスト・チーゲル
独逸語数学算術 アントン・オイゲン・ゼレステ
解剖学、組織学 ヨゼフ・ヂスセ
独逸語、羅甸語、地理学初歩 アドルフ・グロート
外科及眼科 ジユリウス・スクリバ
化学、製薬学、薬剤学 イ・エフ・エイキマン
ここには名前が出てこないが、その後、通良の在学中には、大澤謙二(生理学)、緒方正規(精神病学)、髙橋順太郎(内科学)、小金井良精(病理解剖)らが大学のスタッフに加わり、ドイツ人医師は少数派となった。さらに、通良が卒業するまでには、1888(明治21)年には濵田玄達(産科学、婦人科学)、翌1889(明治22)年には弘田長〔ひろた つかさ〕(小児科学)が赴任する(注4)。後に通良は、濵田玄達と弘田長に『はゝのつとめ』の校閲をお願いすることになる。
この頃の講義について、入沢達吉は次のように述べている(注5)。
本科の講義は主として学生が筆記したもので、村岡範為馳氏が物理学を教へて、是は独逸語で講義された。それから大沢謙二氏が生理学、それから新しく帰朝された高橋順太郎氏が薬物学、是は孰れも日本語で講義されたが、独逸語交りであつた。(中略)其外緒方正規氏が帰朝されて衛生学の講義をやり、三宅秀氏が医史の講義をされた。其以前は一切外国教師でやつたので皆独逸語で講義をした。即ち和蘭人のエーキマンの化学、ヂツセの病理解剖学、スクリバの外科、ベルツの内科及婦人科、皆独逸語でやつた。法医学はスクリバ氏が担任して居つた。皮膚科、小児科などと云ふものは無論なかつた。
東京大学医学部が発足した頃は、教員はすべてドイツ人で、講義はドイツ語だった。だが、通良の1年先輩にあたる入沢達吉の記述では、ドイツから帰国した日本人教師が増えつつあり、日本語での講義があったことも散見される。ドイツ人医師ではなく、日本人医師が医学部の主導権を握る時代に入り始めていたのである。通良が学んでいたのは、そうした時代の転換点であった。
(注1)岡田和一郎先生伝記刊行会編『岡田和一郎先生傳』p.22
(注2)入沢達吉先生生誕百年記念文集編集同人編『入沢達吉』p.250~p.251
(注3)岡田和一郎先生伝記刊行会編『岡田和一郎先生傳』p.26
(注4)岡田和一郎先生伝記刊行会編『岡田和一郎先生傳』p.51~p.52
(注5)入沢達吉先生生誕百年記念文集編集同人編『入沢達吉』p.252
(3)通良の学生生活
1884(明治17)年、通良は東京大学医学部に入学した。予科から本科へすすんだ通良は、どんな学生生活を送っていたのだろうか。通良自身は次のように記している(注1)。
恁〔こ〕んなことを話しても仕方ないが随分人の知らない苦みをして、其間をやうやう切り抜けて二十歳の時、明治十八年の十一月兎〔と〕に角大学へ入ることが出来た。人は私などを見て呑気に学校を出た者の様に思つて居るかも知れないが、実際は却々〔なかなか〕そんなぢやないので随分苦しい目を見たのであるから、生活難も充分知って居る。大学へ行つた其翌年頃から、
■内職も追々殖えて 来て、翻訳をしたり通弁をしたり、外国人に日本語を教へたりして。いろんなことから得る収入が一月に十五円位はあつたので、苦しい中〔うち〕にも息を吐〔つ〕いて居た。
相変わらず生活は苦しかったが、大学入学後は、本の翻訳や通訳、さらに外国人に日本語を教えるなどして、何とか家計をやり繰りできるようになっていた。本の翻訳とは、文部省等から依頼された医学書の翻訳であった。また、通訳とは、東京大学医学部の教授であったベルツやスクリバらの講演や講義の通訳であった(注2)。
だが、通良はここでは触れていないが、金銭面では痛恨事ともいえる出来事があった。杉浦守邦氏は次のように述べている(注3)。
故郷笠幡には父の遺産として、旧宅と4町幾反に及ぶ杉、檜、モミ等の森林があった。これらの財産管理の必要上、親戚に依頼した三島自筆の委任状が、現在神田氏の手元に保管されている。達筆で美濃紙にかかれ、全文は次の通りである。
「委任状
一 拙者今般医学修業の為め在京致し候に付、留守中公私の事務一切、拙者の代理委任致候。依りて為後日、委任状如件。
明治十六年八月十三日
高麗郡笠幡村六十番地
三島通良
神田和十郎殿
神田茂七殿」
翌17年11月、東京大学予備門を卒えて、東京大学医科大学に入学したが、学資が続かなくなり、そこで地所と森林を手放すこととなった。しかし仲買人にだまされて、当時の金でわずかに五百円くらいしか手元に残らず、以来零落して故郷にもほとんど帰らなかったという。
人名事典に苦学して学を卒えたとあるが、こういう事情によるものである。
この土地売買をめぐりトラブルもあって、学生時代の通良は、学業と学費・生活費を稼ぐことで精一杯の生活を送っていた。寄宿舎に入ることもできず、他の学生のように寄席にいったりすることもなかっただろう。ちなみに、当時はまだ映画はない。芝居は入場料が高く、学生の娯楽は寄席か政談演説を聞くことであった(注4)。
通良の成績は決して悪くなかったが、奨学金をもらえるトップ層に食い込むことはできなかった。それでも、持ち前の生真面目さと意志の強さで、一歩一歩、着実に学力をつけていったようである。
また、通良はベルツやスクリバの通訳をやっていたので、彼らと親密な関係を築いていたようである。杉浦守邦氏は次のように記している(注5)。
(前略)当時東京大学の教師であったベルツ(明治10年来朝,、33年帰国、内科)やスクリバ(明治13年来朝,、34年帰国、外科)の講演や講義の通訳をつとめた。こういう関係で、三島はベルツやスクリバから大いに愛されたという。彼は特にベルツに傾倒し、後年よくその話をしていた。
通良はベルツから産科の知識を学び、やがて『はゝのつとめ』を出版するのであるが、そのことについては後述する。
(注1)三島通良「月費僅に五十銭 医学博士 三島通良君」、『名士の学生時代』p.281
なお、この文章では大学への入学を「明治十八年の十一月」としているが、実際には1884(明治17)年12月である。年齢も数え年「二十歳」ではなく、19歳だったと思われる。
(注2)杉浦守邦「三島通良」(1)、『学校保健研究』10(2)、p.75
(注3)杉浦守邦「三島通良」(1)、『学校保健研究』10(2)、p.75
(注4)入沢達吉先生生誕百年記念文集編集同人編『入沢達吉』p.257
なお、「政談演説」とは自由民権運動の演説のことである。ただし、通良が東京大学医学部に入学した1884(明治17)年には、秩父事件などの影響で自由党は解党し、立憲改進党も事実上分解していた。だが、1886(明治19)年になると大同団結運動が起こり、自由民権運動は再び盛り上がりを見せることになる。
(注5)杉浦守邦「三島通良」(1)、『学校保健研究』10(2)、p.75~p.76
なお、ベルツとスクリバの経歴については、杉浦氏の記述に不正確なところがあるので、補足しておきたい。ベルツが東京大学(後に帝国大学)に勤務したのは1876(明治9)年~1892(明治25)年および1893(明治26)~1902(明治35)年である。スクリバの勤務期間は1881(明治14)年~1887(明治20)年および1889(明治22)年~1901(明治34)年である。ベルツは帰国後の1913(大正2)年にドイツで死去した。スクリバは帰国せずに1905(明治38)年に日本で死去している。
(4)学生気質
当時の学生たちの回想録を読むと、血気盛んな若者像がみてとれる。彼らは医学を学びながらも、それ以外にさまざまな活動をしていた。直接、通良は登場しないが、同時代を同じ学び舎で過ごした学生たちの手記から、当時の学生生活や学生気質についてふれておきたい。
ア)学費値上げ反対運動
1886(明治19)年、文部省は大学授業料を値上げする方針を打ち出した。『岡田和一郎先生傳』にその様子が記されている(注1)。
是は、時の文部大臣森有禮氏が大学々生の月謝五十銭を改めて二円五十銭に増額することにしたので、先生〔著者注:岡田和一郎のこと〕を初め、谷口長雄、北川乙治郎氏等の諸盟友相謀つて、同級生を総動員して反対し、少くも現在学生の既得権は擁護すべしとなし、之れに向つて大いに闘ふ可く決議して、陳情委員総代として、同級生中より、先生並に湯原元一氏の両人が選出され、文部省に当時の専門学務局長濱尾新氏を訪問して交渉し、終にその目的を貫徹して、その当時在学中の学生に対する増額は断然実行せざることゝとなつたのである。
名前は出てこないが、通良もこの運動に賛同して協力したことであろう。生活に苦しんでいた通良にとって、学費が月五十銭から二円五十銭に値上げされれば、きわめて深刻な状況に陥るのは明らかである。岡田和一郎自身も本科進学直後に父を亡くしていた。学生たちのなかには、家計が苦しい者も少なくなかったのである。
イ)刀圭学舎
明治初期に創設された西洋医養成のための学校の一つに、済生学舎がある。設立したのは長谷川泰〔はせがわ たい〕(1842-1912)である。長谷川泰は、後に通良の学校衛生確立の取り組みに深く関わる人物である。医療ジャーナリストの鈴木昶氏は、済生学舎について次のような評価を与えている(注2)。
明治になるまで、医師になるのに法的規制はなかった。西洋文明に追いつくことを国策とした新政府は、漢方を否定したせいで極端な医師不足に直面してしまう。そこで医師の緊急養成のための済生学舎を開設したのが長谷川泰である。権威主義と闘いながら二八年間に九六〇〇人もの医師を生み出した彼の功績は大きい。それは一見無謀だが、日本の医療にとっての緊急措置ともいうべき決断であったろう。
ところが、当時の医学部学生たちには、この済生学舎は不評であった。自分たちが受けている医学教育と比較して、済生学舎の医学教育はきわめて不十分な内容であると考えたのである。そのため、通良の同級生たちは済生学舎に対抗して、刀圭学舎という学校をつくってしまう。大学1年生たちが校舎を新築し、1年間にわたって約30人の学生を集めて学校を運営したのである。通良はこのことには関わっていないようであるが、この時代の医学生たちのバイタリティを感じるエピソードを『岡田和一郎先生傳』から引用する(注3)。
此時代に計画されたる事跡中最も大胆なるものとしては、時代の施設医育機関としての王座に在つた長谷川泰先生の済生学舎を向ふに廻して同区内〔筆者注:本郷区〕追分町の奥田邸の一部に校舎を新築して医学校を開設した事である。(中略)当時の私立医育機関の不備なるを憤慨した末、医学校を建設して(中略)皆な一定の学課を分担して教鞭を取ることを課し、主として北川、谷口両氏の出資にて前記の場所(今の一高前)をト〔ママ〕して二階建の校舎を新築して、差当り物理学、化学 解剖学、生理学の教授に要する教材を設備して生徒を募りて約三十人の入学者を得た。余等は皆な大学一年生であるので朝に大学に在つて(中略)講義を聴きて、夕に此私設学堂に入りて此等の諸学課を講義するといふ如き極めて大胆する事業を開始したのであつた。
刀圭学舎は諸事情により1年間で閉校になったが、長谷川泰に対しては少なからぬ影響を与えたようである。『岡田和一郎先生傳』の続きを読んでみたい(注4)。
(前略)此校の開設のあつた為め済生学舎の長谷川先生は大に之を憤慨されて、一日同校全学生を集めて大学の「青二才」共が本校に立て衝いて、医学校を開いた由であるが、本校は爾今益々設備を充実し教師を精選して諸氏の医育の向上を計るべきであるから、諸氏断じて此青二才等に誘惑さるゝことなかれと演説されたとのことであつた(中略)実際其後済生学舎は日を遂ふて改良に改良を加へ、拡張に拡張を重ねて遂に一大私立学校となり、余も亦大学卒業後、一時外科学の教授として教鞭を取ることもあつたのであつた。
ウ)賄征伐
賄〔まかない〕征伐とは、寄宿舎に入っている学生たちが、食堂を運営している業者に対して、食事の質が悪いと抗議するための実力行使である。若さからくるものとはいえ、なかなかの乱暴ぶりである。当時の賄征伐について、三浦勤之助は次のように述べている(注5)。
緒方 (前略)話が変りますが、先生でも賄征伐をおやりになりましたか?
三浦 ええ、やりましたよ。大学の寄宿舎へ入つてからですね。
緒方 それは本科ですか。
三浦 そう、予科の頃からやりましたな。
(中略)
緒方 どんな形式で賄征伐をなさつたのですか。
三浦 つまり賄は安いのですから、学生のほうが無理なんでしようね、とに角月三円くらいですから・・・・・・それにしてもまずいものを食わすんですな。だから、値段より品物が悪いということ、「おこうこ」などにかけた醤油を元に戻して使う、賄の奴は儲けるに違いないというので、賄を呼んで談判する。するとその当座は二、三日よくなるけれども、又悪くなる。それで隊を組んで一時に食堂へ行くんですよ、そうすると向こうが慌てるでしよう、するとみんなが机を叩いて、「早く持つて来い」「早く持つて来い」とどなる。なかなか持つて来ない。すると茶碗を床にぶつつけて割るんです・・・・・・そういう悪いことをした、ハハハハハ。
エ)和服から洋服へ
通良の頃、が学生たちはどんな服装で大学へ通っていたのか。入沢達吉は次のように回想している(注6)。
それから私共が予科に居つた時及本科になつても、服装は和服に袴を着けて、大抵靴を穿いて居つたものである。靴でなければ教場へ入れなかつた。それが一般の学生の風であつた。(中略)頭は毛を長くして居つた。毬栗はなかつた。私共其時分から五分刈は西洋の懲役人だと云ふことを聞いて居つた。頭はチャンと分けて居る人が多かつたが、面倒臭がる連中は分けない。然し短かく切つて居る者はなかつた。教場で西洋人の先生から、櫛を用ゐなければいかんと云ふ小言をいはれたことも度々あつた。
毬栗〔いがぐり〕頭の学生はいなかったようである。和服に靴を履き、髪の毛を伸ばしているのが、一般的な学生のファッションであった。
ところが、入沢達吉が三等(3年)の頃に洋服の着用が始まるのである。入沢達吉は通良の1年先輩にあたるので、通良が四等(2年)のときのことである。入沢達吉の回想を続ける(注7)。
本科に入つてから、三年位後に、始めて洋服と云ふものを同級生申合せて作つた。其時分から学生の洋服がそろそろ始まつたのであります。それから今の大学生の著て居る金釦の洋服は、もつと後になつて出来ました。私共の卒業試験の頃には、最早皆な金釦の制服を著て居ました。其頃は外套迄も金釦で制服の同じ色でありました。角帽は始はポツポツ自分で拵へてかぶつて居つたのです。明治十八年に大学を卒業して、今は九州に居られる工学士の和田義睦と云ふ人が考案して拵へた物で、後に一般に用ひられることになり、遂に制帽となつた。
学生服の金ボタンや角帽は、この頃に始まったことがわかる。制服についての記述は『岡田和一郎先生傳』や『一医学者の生活をめぐる回想 名誉教授三浦謹之助の生涯』にも登場する(注8)。
オ)医学実習のエピソード
彼らは医学部の学生であったので、医学の実習がある。この時代の実習について、三浦勤之助は次のように述べている(注9)。学生たちが豪気な気性を競っているようであり、そうした時代の雰囲気がよくわかる記述である。
三浦 (前略)この頃は解剖の実習に屍体の手を切つたり足を切つたりしたのをアルコールの浴槽みたいな中に漬けて、毎日それを出してやる。又新鮮な屍体のある時は、二人向い合つてやるんですね。その頃はやつぱり一つの屍体に六人か八人位でした。
緒方 頭と、手と、お腹と、足と、それが左右ですか。
三浦 それから足りない時に、アルコールの桶の中に入れてあるやつを出して来てやるのです。それで解剖室で弁当を食うということが自慢だつた。それをいやがる奴がいるのですよ。それから当時は和服ですからね。柳原に行つて古い洋服の上衣を買つて来て、袴をはいて、その上に上着だけを着てやつた。そのまま表にも出るんです。すると臭いんで、犬に吠えられる。
(注1)岡田和一郎先生伝記刊行会編『岡田和一郎先生傳』p.37
なお、谷口長雄先生傳記編纂会編『谷口長雄傳』、谷口長雄先生傳記編纂会、1937年、p.26にも、学費値上げ反対運動についての記述がある。
(注2)鈴木昶『日本医家列伝―鑑真から多田富雄まで―』、大修館書店、2013年、p.267
(注3)岡田和一郎先生伝記刊行会編『岡田和一郎先生傳』p.38~p.39
(注4)岡田和一郎先生伝記刊行会編『岡田和一郎先生傳』p.39
(注5)三浦紀彦編『一医学者の生活をめぐる回想 名誉教授三浦謹之助の生涯』p.35~p.36
また、入沢達吉先生生誕百年記念文集編集同人編『入沢達吉』p.242~p.243などにも、賄征伐を行ったことが記録されている。
(注6)入沢達吉先生生誕百年記念文集編集同人編『入沢達吉』p.258~p.259
(注7)入沢達吉先生生誕百年記念文集編集同人編『入沢達吉』p.259
(注8)岡田和一郎先生伝記刊行会編『岡田和一郎先生傳』p.38および三浦紀彦編『一医学者の生活をめぐる回想 名誉教授三浦謹之助の生涯』p.34~p.35
(注9)三浦紀彦編『一医学者の生活をめぐる回想 名誉教授三浦謹之助の生涯』、p.40~p.41
なお、文中に出てくる「柳原」は、本所区本所柳原(現・墨田区江東橋)のことで、当時は古着専門店が軒をつらねていた。
(5)帝国大学医科大学
1886(明治19)年に帝国大学令が公布された。帝国大学には大学院が新設され、大学院のもとに法・文・理・医・工の五分科大学が置かれることになった。「大学院は学術技芸の蘊奥を攻究する機関、分科大学は学術技芸の理論と応用を教授する機関」(注1)と位置づけられた。学校教育は分科大学で終了であり、大学院は学術研究の機関とされたのである。また、修業年限は医科大学が4年、それ以外の分科大学は3年となった。ただし、通良たちの学年は以前どおりに5年間の修業年限のままであった。また、これ以降、医科大学の卒業生は医師試験が免除されるようになった。
この改革を主導したのは、初代文部大臣・森有礼である。森有礼は、それまでの儒教道徳に基づく教育政策を否定した。「森の教育思想の基調をなしているものは、教育の意義を『国家経営』の見地から理解し、その関心に則って教育や学校の諸問題を論じようとする思惟様式であった」(注2)。つまり、「学校の制度を設けて生徒を教育するのは、生徒個人のためではなく国家のためである」(注3)という認識が根底にあったのである。
帝国大学令によって、東京大学医学部は帝国大学医科大学と改称された。帝国大学の名称は、「国家主義を意識して帝国の名を冠したもの」(注4)であった。初代の医科大学長は三宅秀〔みやけ ひいず〕(1848-1938)である。
『東京大学医学部百年史』によると、「当時の教授は田口和美(解剖)、小金井良精(解剖)、大沢謙二(生理)、緒方正規(衛生)、高橋順太郎(薬物)、佐々木政吉(内科)、宇野朗(外科、皮膚梅毒科)の七名で(中略)外人教師はディッセ(病理解剖)、ベルツ(内科、産婦人科)、スクリバ(外科、皮膚梅毒、裁判医学、眼科)の三名という顔ぶれ」(注5)であった。
なお、東京大学医学部のときまでは2学期制だったが、帝国大学医科大学では3学期制となった(注6)。また、東京大学予備門は第一高等中学校となり、それまでは本科で教えていた物理、化学、動物、植物は高等中学校で教授されることになった(注7)。
(注1)山本正身『日本教育史―教育の「今」を歴史から考える―』p.129
(注2)山本正身『日本教育史―教育の「今」を歴史から考える―』p.125
(注3)山本正身『日本教育史―教育の「今」を歴史から考える―』p.126
(注4)東京大学医学部創立百年記念会/東京大学医学部百年史編集委員会編『東京大学医学部百年史』p.163
(注5)東京大学医学部創立百年記念会/東京大学医学部百年史編集委員会編『東京大学医学部百年史』p.163~p.164
(注6)谷口長雄先生傳記編纂会編『谷口長雄傳』p.31
(注7)谷口長雄先生傳記編纂会編『谷口長雄傳』p.31
(6)卒業
通良の大学生時代の業績として特筆されることは、1889(明治22)年に『はゝのつとめ』を出版したことである。帝国大学医科大学在学中、23歳のときのことである。『はゝのつとめ』については、章を改めて詳しく紹介したい。
通良が帝国大学医科大学を卒業したのは、1890(明治23)年7月10日である。杉浦守邦氏は、通良の卒業は1889(明治22)年11月としているが(注1)、通良の同級生だった岡田和一郎や谷口長雄の伝記には、「明治二十三年七月卒業者」の44名の名簿が掲載されており、そのなかに通良も登場する(注2)。実質的には1889(明治22)年11月に卒業していたが、正式に卒業證書が授与されたのは1890(明治23)年7月だったようである。
卒業する医学部の学生たちを最後に待ち受けているのは、数か月におよぶ卒業試験である。当時の卒業までのしくみについて、『岡田和一郎先生傳』では次のように述べている(注3)。
当時、医科大学は、修業年限は四個年で、七月に終るのであつたが、更に暑中休暇の後卒業試問があつて、之れが九月より翌年三月にかけ、解剖学及病理学、外科学及眼科学、内科学及産科学の三大科目に亘つて行はれ、学生を数組に分けて、第一大科目より第三大科目に至る迄、順次試問を受けしめる制度であり、この受験生を「卒業受験生」といひ、この卒業試問が全部終つてから卒業式が挙行されるのであつて、この九月より翌年の三月までの卒業生を一括して、同年七月に発表してゐたので先生も翌明治二十三年の七月に卒業證書を授与されたのである。
卒業試問は学生たちとって、医師になるためには最後の大きな壁であった。これを突破すれば、晴れて医術開業免許を受領することができるのである。
では卒業試問とは、どんな試験なのか。通良より1年上の芳賀榮次郎は、次のように述べている(注4)。
本科の卒業には、その年の四月に学術科が終り、医学全科の試験を受けるので、受験準備の時日を与ヘられ、九月から愈々試験が始まり、先づ五名を一組とし抽籤で順がきまる。予は第三組であつた。この時は基礎医学は概ね邦人教授の担当となつてゐて、試験は解剖学は小金井良精、生理学は大沢謙二、病理学は三浦守治、薬物学は高橋順太郎の諸氏で、全部口頭試問であつた。又実地試験は内外科入院患者に就て、病名、診断、治方等を筆記して提出した。
また、芳賀榮次郎と同級生だった三浦謹之助も、次のように回想している(注5)。
緒方 あとは卒業の試験でございますか。
三浦 ええ。
緒方 試験はやはりドイツ語で、お受けになつたのですか。
三浦 病人を預けられて、その答案を書くのです。これをどういう訳で、かような診断をつけたか どういう薬を用いるか、患者をその朝与えられて、翌朝までに書いて出さなければならない。
緒方 助手なんかに、教えて貰えるんですか。
三浦 そうですねえ・・・・・・教わつた人もあるかも知れないけれど・・・・・・。私は糖尿病が当つたね。あの卒業試験の時のはみんな覚えているもので、十年、二十年経つても卒業生が何かで集まるとその話が出る。
実際の患者を担当して診断を下し、その治療法を回答する実地試験については、一人ひとりの「卒業受験生」にとって忘れられない体験であったようである。
この卒業試験を経て、通良たちは学生生活を終えるのである。では、卒業生たちには、どのような進路先が待っているのであろうか。吉良枝郎氏によれば、明治10年代~20年代の東京大学医学部(帝国大学医科大学)の卒業生の半数は、地域の医療と医学教育の中枢となるべく、日本の各地域へ派遣されていった(注6)。
明治十二年からの卒業生中学業成績上位三名は、公費でドイツ留学を命じられた。このほか(中略)私費で留学した者もいる。森鴎外がその典型例であるが、陸軍軍医、海軍軍医、警視庁医師に就任した者、無給であるが大学助手になった者もあるが、これら以外の医学士のほとんどは卒業直後から各県の医学校兼病院に赴任している。(中略)彼らの出身県と赴任先との関連は原則的にはないといえる。個人の希望などは、許容されなかったのではないだろうか。
大学の医学部卒業生は、希少な存在である。各道府県ともまだ地域医療を確立している最中であり、彼らは喉から手が出るほど欲しい人材であったろう。だから、彼ら医学士たちはかなりの高給で処遇された。吉良枝郎氏は次のように述べている(注7)。
(前略)各府県に赴任した医学士の給与は月額百二十円前後であった。当時としては極めてといってよい高給である。明治二十六年中外医事新報324号によれば、当時の帝国大学医科大学生理学教授大沢謙二の年俸は千二百円、衛生学教授緒方正規、解剖学教授小金井良精のそれは千百円、内科第二講座青山胤通、外科学第二講座高橋三吉のそれは千円、眼科講座河本重治郎、小児科学講座弘田長のそれは九百円であったという。
新任の医学士の給与を年俸にすれば、大学教授の恩師たちよりも高給になる。かなりの厚遇を受けていることがわかる。
ところが、通良は大学院への進学を選択する。通良は高給をもらうことよりも、研究者の道を歩んでいく決意を優先したである。その選択を可能にしたのは、『はゝのつとめ』の印税であった。『はゝのつとめ』のヒットがなければ、大学院へ行くことは経済的に許されなかったであろう。
1890(明治23)年7月、通良ら44名は帝国大学医科大学の卒業證書を授与された。卒業生名簿は以下のとおりであるが、この名簿は成績順である(注8)。通良は44人中12番で卒業した。また、東京大学予備門卒業時には「埼玉」出身と掲載されていたが、大学卒業は「東京」となっている。これは笠幡村の土地を手放して、本籍地が東京へ移ったことを反映していると考えられる。
予備門を同じ年に卒業した46名のうち12名がこの名簿には載っていない。本科へは入学しなかったか、入学後に留年もしくは退学したと考えられる。そして10名が新顔であるが、これは留年して上の学年から降りてきた学生だと思われる。
明治二十三年七月卒業者(四十四名)
伊藤隼三(鳥取) 坪井速水(岐阜) 岡田和一郎(愛媛) 高田畊安(京都)
若杉喜三郎(新潟) 平井毓太郎(三重) 筒井八百珠(三重) 鶴田禎次郎(佐賀)
谷口長雄(愛媛) 鈴木文雄(東京) 丸茂文良(山梨) 三島通良(東京)
下平用彩(和歌山) 吉村源太郎(静岡) 關場不二彦(青森) 戸田成年(福岡)
宮島満治(神奈川) 神村兼亮(山口) 大高信蔵(大阪) 渡邊恭三(宮城)
舟岡英之助(福井) 北村精造(東京) 安倍朝五郎(岡山) 和辻春次(兵庫)
高島吉三郎(石川) 林曄禮(愛媛) 逸見文綱(富山) 吾妻慶治(秋田)
大村秀畝(滋賀) 水野欽(静岡) 中村桃二郎(岐阜) 白江規矩三郎(長崎)
栗本秀二郎(東京) 澤邊祐尚(東京) 山本愼(三重) 近藤節蔵(鳥取)
井上槌蔵(兵庫) 行徳隣(福岡) 吉永秀造(福岡) 山口秀高(東京)
樋口養源(滋賀) 渡邊泰(新潟) 田村貞策(宮城) 廣瀬胖(三重)
最後に、卒業宴会について触れておきたい。この卒業宴会をめぐって、当時の学生気質を伝えるエピソードがある。入沢達吉の文章を引用する(注9)。
(前略)私共が卒業する頃には、毎年卒業宴会と云ふものがあつた。それは医学部の年中行事の一つで、卒業試験が終ると次の級の学生が斡旋者になつて、卒業した者及教授諸先生、それから幾らか費用を取つて卒業生の親類などを呼んで、さうして向島の八百松で大宴会をすると云ふことに極つて居つた。其時色々学生の余興があつた。後に段々大袈裟になつて、髷を被つて芝居をやると云ふことになつた。私の上の級の卒業の時、私の級で芝居をしたのでありますが、田代が下女になつて、山極が小娘、吉松駒造が巡査、渋谷周平が坊主になつたことを覚えて居ります。然るに其後に至つて渡辺帝国大学総長が学生が芝居をするのは宜しくないと云ふので、之を差止めた。所が学生は総長の差止めに服しないで、抗議を申込んで談判に行つた。渡辺総長も嘗つて伊藤、井上両伯などで催した鹿鳴館の仮装舞踏会に変装して出たと云ふことがあつたではないかと詰つたら、総長も大に窮して仕舞つたと云ふことであつた。
総長の意向にも簡単には屈しないところにも、やはり当時の学生気質があらわれているといってよいだろう。医学部を卒業した通良たち卒業生は、この宴会を最後の思い出にして、それぞれの進路先にすすみ、社会へと出て行ったのである。
(注1)杉浦守邦「三島通良」(1)、『学校保健研究』10(2)、p.77
(注2)岡田和一郎先生伝記刊行会編『岡田和一郎先生傳』p.55~p.56および谷口長雄先生傳記編纂会編『谷口長雄傳』p.33
(注3)岡田和一郎先生伝記刊行会編『岡田和一郎先生傳』p.55
(注4)芳賀榮次郎『芳賀榮次郎自叙傳』p.28
(注5)三浦紀彦編『一医学者の生活をめぐる回想 名誉教授三浦謹之助の生涯』p.49~p.50
(注6)吉良枝郎『明治期におけるドイツ医学の受容と普及―東京大学医学部外史』p.110~p.111
(注7)吉良枝郎『明治期におけるドイツ医学の受容と普及―東京大学医学部外史』p.124
(注8)谷口長雄先生傳記編纂会編『谷口長雄傳』p.33
(注9)入沢達吉先生生誕百年記念文集編集同人編『入沢達吉』p.258
6 『はゝのつとめ』の出版
(1)出版までの経緯
1889(明治22)年、通良は『はゝのつとめ』を出版した。この本はベルツの講義から学んだことに加えて、濱田玄達(産科学及産婦人科臨床)と弘田長(小児科学及小児科臨床)に指導を受け、さらにドイツと日本の産科学や小児科学の本を参考して書かれた。『はゝのつとめ』は、初めて日本人によって書かれた近代医学に基づいた出産と育児についての著書である(注1)。同書は、「親の巻」(妊娠・出産編)と「子の巻」(育児編)という、上下2巻で構成されている。『はゝのつとめ』の校閲者は濵田玄達と弘田長であり、「親の巻」の序文を濵田玄達、「子の巻」の序文を弘田長が執筆している。
ところで、通良が『はゝのつとめ』を出版した理由には、経済的な側面もあったようである。通良が本科の四等(2年)になった頃から、翻訳や通訳の仕事が増えたために、三島家の家計はやや改善されていた。ところが、卒業の前年になって仕事が少なくなり、再び生活苦に陥ってしまった。そこで、三島家の苦境を救うことも目的のひとつとして、通良は『はゝのつとめ』を刊行しようとした。ただ、その道のりは決して平坦ではなかった。『はゝのつとめ』が出版されるまでの経過については、通良自身が次のように記している(注2)。
處〔ところ〕が卒業する前の年になつてそれ等の仕事が少くなつた為に、再び生活の困難を来したので、『母のつとめ』を書いたのも恰度〔ちょうど〕其時、彼〔あ〕の本は私の大学を卒業するに就て非常に縁故の多い記念である。前から私は小児科のことに就てはいろいろ考へもし研究もし、深く感ずる所あつて彼本〔あれ〕を書いたのだけれど、何處〔どこ〕の本屋へ持つて行つても売れる見込がないからと云つて、
■出版して呉れない 貴下〔あなた〕の方で出すなら売ること丈〔だけ〕は致しませうと云ふので、秀英舎へ持つて行くと三百五十円なければ出来ないと云ふ。三百五十円處〔どころ〕か小遣さへないのだから迚〔とて〕も駄目だと思つたけれど、断念〔あきら〕められなくて、考へたり奔走した結果、やうやう或る處から其金を借りることが出来た。前に私が日本語を教へた人で後白耳義〔ベルギー〕の総領事になつて居るモスレーと云ふ人が居つたので、其人に相談すると早速快諾して三百五十円貸して呉れたから、其金を以て直に印刷し、丸善と中央堂と島利―之は今なくなつて終〔しま〕つたが、此三軒の本屋へ頼んで売つて貰つた。幸ひに刷つた本は皆な売れたので、モスレーから借りた金も返すことが出来、後へも若干〔いくら〕か残つたので之が学校を卒業する迄の学資になつたのである。
こうして出版された『はゝのつとめ』によって、三島通良の名がはじめて世間に知られるようになった。『はゝのつとめ』は1908(明治41)年までに22版まで増刷されて、約4万冊が発行された(注3)。通良はその印税を学費にあてることができるようになり、家計はようやく一息つける状態になったのである。
なお、『はゝのつとめ』が増刷された理由の一つに、文部大臣・榎本武揚の支援があった。榎本は『はゝのつとめ』2版に題辞を書いてくれただけではなく、皇室へ『はゝのつとめ』を献上してくれたのである。その後、榎本の題辞と「皇后陛下の御覧」が宣伝の材料となり、同書が売れる要因の一つとなったのはまちがいない。通良は『はゝのつとめ』増訂3版の「はゝのつとめ第三版の序」に次のように記している。
此はゝのつとめか初版以来享けたりし光栄は実に望外に出て嚮〔さき〕には
皇后陛下 の御覧を辱くし又常宮周宮両殿下の御一顧を蒙り且医科大学産科婦人科及ひ小児科病室を始として華族女学校、長崎、福岡、島根、秋田等の尋常師範学校其他各府県の公私立女学校等にては本書を教科書又は参考書として用ゐたり。 於是乎著者か熱心に希望したる我国の婦人及ひ小児に対する衛生法は流星の速力を以て進行し本書之か指南となりて百方その職を尽せることは著者が確く信ずるところなり
『はゝのつとめ』は皇后だけではなく、二人の皇女(常宮と周宮)も読んでくれたという(注4)。そして、医科大学の産婦人科と小児科病室、華族女学校、長崎・福岡・島根・秋田などの尋常師範学校および各府県の女学校などで、『はゝのつとめ』が教科書や参考書として採用された。通良が望んでいたように、医学的見地に基づく出産と育児の知識が一定程度広まったといえるだろう。
(注1)三島通良編述『はゝのつとめ』(「親の巻」増訂3版)、丸善、1892年の「凡例」には、次のように記されている。これを読むと、通良がどんな本を参考にして『はゝのつとめ』を執筆したのかがわかる。
凡例
一 此書は一般婦人をして母親及ひ小児に対する衛生上の事項を容易く理解せしめんとの目的より編述したるものなれは殊更に談話体を学ひ可及的学術語に換ふるに普通語を以てせり
一 本書を編述するに際して用ゐたる参考書類左の如し
独逸ミュンヘン大学産科学婦人科学教授ドクトル、ウインクル氏著 産科学
ライプチヒ大学産科学婦人科学教授ドクトル、ツワイフェル氏著 産科学
ウュツブルヒ大学内科学教授ドクトル、ゲルハルド氏著 小児科学叢書
枢密顧問医官ベルリン大学小児科学教授ドクトル、ヘーノッヒ氏著 小児科学 第六版
ベルリン大学講師ドクトル、バギンスキー氏 墺国ウイン大学講師ドクトル、ヘルツ氏 同ウイン大学教授ドクトル、モンチー氏 編輯 小児科学アルヒーフ
日本帝国大学医科大学内科学教師ドクトル、ヘルツ氏 内科各論及内科臨床講義 産科学及婦人科学講義
同産科学婦人科学教授医学博士医学士濱田氏 産科学及産科婦人科臨床講義
同小児科学教授医学博士医学士弘田氏 小児科学及小児科臨床講義
同衛生学教授医学博士医学士緒方氏 衛生学講義
前ザクセン国王陛下ノ侍医ドクトル、アムモン氏著 母親の職務及小児教養法
ドクトル、バイフェル氏著 産室及小児教養法
日本 竹中敬氏撰 古今養性録
同 賀川玄悦氏著 産論
同 香月啓益氏纂 婦人壽艸 小児養育草
其他参考に供したる書類尚ほ数多あれとも省きて記さす
一 本書章節順序の多分ハ此の類の書中最も信用を博せしドクトル、アムモン氏著の母親の職務及小児教養法に則れり
一 本書の編述に就て特に親愛なる補助と精密なる校閲の労を与へられるハ濱田弘田の両師なり故に茲に之を感謝す
著者識
(注2)三島通良「月費僅に五十銭 医学博士 三島通良君」、『名士の学生時代』p.281~p.282
(注3)杉浦守邦「三島通良」(1)、『学校保健研究』10(2)、p.76
(注4)常宮〔つねのみや〕は明治天皇の第6皇女、周宮〔かねのみや〕は明治天皇の第7皇女。
『はゝのつとめ』は、版を重ねるたびに少しずつ改訂されているが、ここでは1892(明治25)年に出版された増訂3版をテキストとして、その内容を考えたい。
ア)「親の巻」の目録
緒言
第一章 妊娠 第一 妊娠 第二 悪阻 第三 児動
第二章 妊娠中の養生 第一 飲食 第二 衣服 第三 運動 第四 清潔法 第五 新鮮空気 第六 精神保養、附胎教、夫の義務幷に難産 第七 妊娠服薬 第八 乳房の準備 第九 産前の準備 第十 出産日の数へ方
第三章 出産 第一 産室の用意 第二 産室に用意の品々 第三 出産 第四 産の仕方 第五 産湯
第四章 産蓐 第一 産蓐中の養生 第二 穢露 第三 産蓐中の心得 第四 乳熱 第五 産婦の用事 第六 蓐湯 第七 繰返
目録にもあるように、『はゝのつとめ』「親の巻」では以下のことが説明されている。
「第一章 妊娠」は、妊娠、悪阻〔つわり〕、児動〔こうごき〕(胎動のこと)についての記述である。妊娠中に起こるさまざまな状況を、西洋医学から解説し、妊婦の不安に向き合おうとしている。
「第二章 妊娠中の養生」では、まず、妊娠中は身体を健全に保つために、飲食、衣服、運動、清潔、新鮮な空気に気をつけるべきだと書かれている。それだけではなく、精神のケアも重要であることが強調される。さらに、「乳房の準備」などが事細かに説明される。
「第三章 出産」は、産屋〔うぶや〕とそこに用意するもの、出産の経過、方法などが説明されている。
「第四章 産蓐」は、産褥〔さんじょく〕期の説明である。産褥期の過ごし方の他、穢露〔おりもの〕(悪露〔おろ〕のこと)、乳熱〔ちねつ〕(産褥熱のこと)、さらに授乳についての医学的な解説が続いていく。
中田元子氏によれば、「第二章 妊娠中の養生」のうち、通良がもっとも力を入れているのはの「第八 乳房の準備」である。江戸時代の育児書や明治初期の翻訳育児書と共通していることであるが、母親が自らの母乳で子どもを育てることの重要性を強調しているのである(注1)。
イ)「子の巻」の目録
第一章 小児教養法の精神
第二章 人乳 第一 母親の乳 第二 母親の養生幷に養生十訓 第三 哺乳則幷に教育の端緒
第三章 乳母 第一 乳母の擇方 第二 乳汁の鑑定 第三 乳母の取扱法 第四 乳母に対する母親の職務
第四章 母親の乳又は乳母なくして小児を養育する法(人工養育法)
甲 生牛乳 第一 牛乳と人乳との比較 第二 牛乳の擇方 第三 牛乳用法 第四 牛乳貯蔵法 第五 乳の壜附清潔法 第六 牛乳の混合物
乙 コンデンスミルク
丙 乳の粉
第五章 分娩より初て歯の生る迄の小児の教養法 第一 浴湯 第二 赤子の黄色になる及び臍帯の手当 第三 月代 第四 頭巾及衣服 第五 便通 第六 赤子の啼のは何か及慣習 第七 赤子の運動 第八 赤児の睡眠
第六章 生歯及小児の発育 第一 生歯の順序 第二 小児の発育
第七章 生歯後の小児の教養法 第一 小児の知恵つき 第二 乳離 第三 百祿児 第四 小児の飲食物 第五 小児清潔法 第六 小児の衣服 第七 帽子と靴 第八 外出
第八章 種痘 第一 種痘 第二 種痘に就ての注意 第三 種痘の時刻 第四 種痘の経過 第五 種痘中の心得
第九章 小児の疾病及び摂生法 第一 小児の疾病に就ての用意の上 第二 小児の疾病に就ての用意の下 第三 小児病の種類と其摂生法の上 第四 小児病の種類と其摂生法の下 第五 薬剤の飲せ方
第十章 小児身体の発育智識の発達より就学児となるまでの母親の職務
甲 身体の発育 第一 骨格と筋肉の発育 第二 小児の室 第三 外方の遊戯 第四 体容を美麗する方 第五 保姆の擇方
乙 智識の発達 第一 感覚の発育 第二 智識発達 第三 家庭教育附就学の心得
『はゝのつとめ』「子の巻」では以下のことが説明されている。
「第一章 小児教養法の精神」では、育児の精神は「注意して放任せよ(きをつけて、はふつておけ)」であると説く。
「第二章 人乳〔ひとのちゝ〕」では、母親はただ母乳を出すのではなく、よい母乳を出すことが大切だと説いている。そのための「母親の養生十訓」が書かれ、授乳について説明される。
「第三章 乳母」では、乳母の選び方や乳母への接し方などが記されている。
「第四章 母親の乳又は母乳なくして小児を養育する法(人工養育法)」では、ヨーロッパにおいて、母乳以外で子育てをした場合の乳児死亡率の高さをあげている。それでも、どうしても母乳以外で育児をする場合の具体的な方法を、牛乳、コンデンスミルク、乳の粉〔こ〕に分けて説明している。乳の粉とは、小麦粉、卵黄、コンデンスミルク、砂糖などを混ぜたものである。
「第五章 分娩より初て歯の生る迄の小児の教養法」は、浴湯の方法、臍帯の手当、月代〔さかやき〕(初剃りのこと)、頭巾及衣服、便通、赤子が泣いたときの対処法、赤子の運動や睡眠について記述されている。
「第六章 生歯及び小児の発育」では、歯の生え方の順序と、その頃の子どもの発育について述べられている。
「第七章 生歯後の小児の教養法」では、乳離れ、百祿児〔くひぞめ〕(お食い初めのこと)と離乳食、清潔法、衣服、帽子と靴、外出の重要性などについて説明されている。
「第八章 種痘」は、天然痘の予防のために種痘を受けさせることの重要性と、その注意事項が記されている。なお、増訂3版が出版された1892(明治25)年に、通良は帝国痘苗院を設立し、自ら種痘を行っていた。通良は種痘を受けるならば帝国痘苗院がよいと推奨している。
「第九章 小児の疾病及び摂生法」では、1歳未満の乳児死亡率が高いことを記した後に、小児の疾病とその対応について述べている。
「第十章 小児身体の発育智識の発達より、就学児となるまでの母親の職務」では、身体と心の発達について述べているが、そのために大切なことは遊戯〔あそび〕であることが強調されている。
「子の巻」は、西洋医学に基づいて育児の方法を紹介したものであるが、ところどころに日本に古来から伝わっている風習も取り上げられている。通良は、単に西洋の医学書の内容を説明しただけではなく、自らの考えを述べるとともに、日本の伝統にも気配りをして執筆したのである。
また、「子の巻」全体を貫いている中心的な考え方は「注意して放任せよ(気をつけて、はふっておけ)」である。通良の家庭育児観を研究した近藤幹生氏もそのことに言及しているが、その点については後述する(注2)。
次項では、杉浦守邦氏による『はゝのつとめ』の紹介、中田元子氏による『はゝのつとめ』の分析、そして近藤幹生氏による『はゝのつとめ』にみる通良の家庭育児観の分析について概観していくことにする。
(注1)中田元子『乳母の文化史―一九世紀イギリス社会に関する一考察』、人文書院、2019年、p.242~p.243
(注2)近藤幹生『明治20・30年代における就学年齢の根拠に関する研究―三島通良の所論をめぐってー』 風間書房、2010年、p.95
(3)『はゝのつとめ』に関する評論
『はゝのつとめ』は、平易に書かれた出産と育児に関する指南書である。研究論文ではなかったためか、『はゝのつとめ』に焦点を当てた論文等は多くない。通良について言及してきた学校保健の研究者たちからは、あまり重視されてこなかったと言ってよいだろう。そうしたなかで『はゝのつとめ』について検討した、杉浦守邦氏、中田元子氏、近藤幹生氏の研究について紹介したい。
ア)杉浦守邦氏による紹介
はじめて『はゝのつとめ』をまとまった形で紹介したのは、杉浦守邦氏である。少し長くなるが、杉浦氏による『はゝのつとめ』についての記述を引用する(注1)。
この頃の三島について特筆すべきことは、学生の身でありながら、「ははのつとめ」という出産と育児の書を著述刊行したことであろう。医科大学在学中、特に当時内科学のほかに婦人科学も教えていたベルツなどから学び経験したところを基とし、これにドイツのウィンケル等の産科学、ゲルハルト等の小児科学等8書と、日本の古い産科書、児科書3書を参考にして書いたものである。初めは学資金を得るためのアルバイトのつもりであったろうが、一般婦人を対象にやさしく書かれた、近代医学に基づく本邦最初の育児書として好評をもって迎えられ, 明治22年6月1日初版以来、41年までに実に22 版を刷った。明治31年11版でかなり大幅な改訂を行なったが、その時の序文に三島は次のように言っている。
「本書は今を去ること十一年以前、予が大学の卒業受験生たりし頃、感ずる所ありて著したるものなり。当時我国の衛生法中、殊に小児に対するものには、云ひ伝えの如き古き方法あり。また西洋の法と称して、実は児科専門の学を修めたる人にあらざる医家の称ふる方法あり。年老いたる人は、昔のものを可とし、若き人は所謂西洋のものを利とし、中に入りたる小児は、寒熱併せ用いられ居る情況なりき。さて 其何れが利、何れが不利なるかは、容易に断言し難けれども、予の見聞したる所にては、何れも輓近児科学の理論に協ひしもの少きが爲め、小児の発育を妨げ、若くは病に罹らしむるもの多きを認めき。
玆に於て、最近の学理を応用し、之を本邦の風俗人情に考え、新たに婦人及び小児の衛生法を説き、彼の弊を救ひ、以て個人衛生中、最も必要にして、且国家富強の基たる、婦人及び小児の健康を、保護増進せんと努めたりき。幸に予の考案は其的を誤らず、本書の記する所は,、舅姑と衝突せず、風俗と悖らず、而して最近の学理を遂行して、本邦の子母衛生法上に、一生面を拓くことを得たり」
全巻を二つに分け、前巻は「親の卷」主として妊娠中の衛生、出産の心得を説き、後巻は「子の卷」授乳•育児の注意、疾病の養生法、保育(彼はこれを教養と称している)について述べている。小児教養法の精神として「注意して、放任せよ」といっているが、これが彼の持論だった。全巻の最後を次のような言葉で結んでいる。
「終に臨みて尚一言す。凡人の母親となりて、自ら受けたる教育を実地に応用し、十分女子たるの本分を尽すは、此家庭の教育にあるのです。・・・家庭教育には親子の愛情が真先に立ちます。此のみは、決して人爲に出来るものではありませぬ。此愛情と云う、尊きものあればこそ、家庭教育は貴重のものと云うなれ。・・・婦人よ、御身は受胎し、出産したるを以て、既に己は人の母なる名に背かずとするか。否、御身は其小児を養育し、之を教育し、其身体にも、亦其精神にも、十分の糧を与えて、而して後にこそ、始めて人の母といわるベけれ」
彼は、自分の母から受けた慈愛と薫陶に対する感謝の念を、この一書にそそぎ込んだといってよい。
発刊にあたって、どういうつてを通したのか知らないが、時の文部大臣榎本武揚の題辞をもらって巻頭を飾り、さらに榎本から皇后陛下に献上されるという光栄に浴することができた。なお27年の増訂版は、天皇、皇后、皇太后の御覧を賜ったと記されている。
全部の発行冊数は4万をこえ、当時のベストセラーとなり、彼自身何回も増訂を行なった。
この本の成功によって、三島は大学卒業後、小児科へ進むことを運命づけられたといってよい。そして大学院(明治19年帝国大学令の公布によって設置、以後この課程を経たものに博士号が授与されることになっていた、期間5か年)に入学して、研究を継続することのできる学資金を獲得したのである。
杉浦氏の記述をまとめると、以下のようになる。
・通良は、大学で産科を教授していたベルツから学んだことに加えて、ドイツの産科学や小児科学、さらに日本の古い産科書、児科書を参考にして、『はゝのつとめ』を書いた。
・『はゝのつとめ』は女性を対象にやさしく書かれた、近代医学に基づく、日本で最初の育児書であった。
・通良が『はゝのつとめ』を記したのは、出産・育児が正しい方法によって行われていなかったためである。老人は日本で古くからの言い伝えられてきた方法がよいと考え、若者は小児科が専門ではない医師による西洋医学らしきものを信奉しているが、いずれも新しい医学的知見に基づいたものとは言えず、子どもの発育を妨げたり、かえって病気にさせたりしている。
・通良は西洋の最新の学問をもとにしつつ、それに日本の現状も加味して、女性と子どもの保護、健康の増進についての新しい方法を提案した。
・通良は女性と子どもの保護、健康の増進の先に、「国家富強」があると考えた。
・前巻「親の卷」は主として妊娠中の衛生、出産の心得を説いている。後巻「子の卷」は授乳•育児の注意、疾病の養生法、保育について述べている。
・通良の持論は、保育の精神は「注意して、放任せよ」というものであった。
・家庭教育の中心には、親子の愛情あることを強調した。杉浦氏はその背景に、通良が「自分の母から受けた慈愛と薫陶に対する感謝の念」があると考えた。
・『はゝのつとめ』は文部大臣榎本武揚の題辞をもらって巻頭を飾り、さらに榎本から皇后に献上されるという光栄に浴することができた。
・『はゝのつとめ』の発行冊数は4万をこえ、当時のベストセラーとなった。この本の成功によって、通良は小児科へ進むことを運命づけられた。そして大学院に入学して、研究を継続することのできる学資金を獲得した。
(注1)杉浦守邦「三島通良」(1)、『学校保健研究』10(2)、1968年、p.76~p.77
イ)中田元子氏による考察―『乳母の文化史―一九世紀イギリス社会に関する一考察』を読む
『乳母の文化史―一九世紀イギリス社会に関する一考察』は、「一九世紀イギリスにおける乳母という存在をとりあげ、その実態を探るとともに、医学的言説、文学作品などにおける乳母表象を分析し、授乳の文化性を明らかにすることを目的」(注1)にしたものであるが、付章として「明治初期日本の母乳哺育と乳母についての言説―欧米事情流入の影響」が載せられている。ここでは、付章の内容を紹介していきたい。
「明治初期日本の母乳哺育と乳母についての言説―欧米事情流入の影響」は、「明治維新後の日本が、文明開化の名のもとに欧米の文物や考え方を取り入れる際、乳母雇用や母乳哺育など乳児哺育についての言説をどのように受け入れたのかを考察する」(注2)ことが目的であるが、具体的には、江戸時代の育児書と明治初期の翻訳育児書を紹介した後に、通良の『はゝのつとめ』と下田歌子の『家政学』および『新撰家政学』を分析している。
江戸時代の育児書と明治初期の翻訳育児書
中田氏は最初に、『はゝのつとめ』が出版される以前の状況について言及している。江戸時代の育児書については、香月牛山『小児必用養育草』、平野重誠『病家須知』、桑田立齋『愛育茶譚』の3冊が取り上げられている。これらの育児書について、中田氏は次のように述べている(注3)。
右に取り上げた江戸時代の育児書は、いずれもまずは生母による授乳を勧めている。(中略)しかしイギリスの医師たちが、自然の掟を根拠に、授乳できるのにしない母親は母親の名に値しないなどと厳しく責めたのに対し、江戸日本の育児書の著者たちは、授乳しない母親に対して非難の言葉を浴びせることはない。(中略)
この理由としては、そもそも江戸時代の育児書が母親を主たる読者対象としていたわけではないということがあるだろう。(中略)家庭用の育児書・看護書の主たる読者として想定されていたのは家長・父親だったと考えてよいだろう。このような事情をふまえると、産みの母による授乳が「天理の自然」であるということはまずは父親に向けて説かれたのであり、それを受けて母親に授乳させるか、させないで乳母を雇うかは家長・父親に決定権があったと考えられる。したがって、母親が授乳しないとしても、母親自身がそのことの責任を問われることはなかったのである。
江戸時代の育児書は、母親による授乳を推奨していた。ただし、あくまでも育児書は家長である父親に向けて書かれたものであった。したがって、これらの育児書は、授乳をしない母親を非難することはなかった。
続いて、明治初期の翻訳育児書について、澤田俊三訳『育児小言』と大井鎌吉訳『母親の教』が紹介されている。明治初期の翻訳育児書の特徴については、次のようにまとめられている(注4)。
これらの翻訳育児書の内容は江戸時代の育児書と共通する点も多いが、何といっても一番大きな違いは、読者対象が父親ではなく母親であることである。医師が直接母親にアドバイスするという形式は、翻訳育児書によって初めて日本にもたらされたものだった。(中略)このように母親を読者と定める翻訳育児書に接した人々は、父親に代って母親が育児に責任をもつ存在となりうることを意識しただろう。
責任が与えられるということは、それを果たさないときに非難や制裁を受けるということでもある。たとえば、授乳については、江戸時代の育児書でも、産みの母の乳が最も望ましいものであると書かれてはいた。しかし、育児書の主たる読者対象は父親だったため、育児書が生母の授乳を勧めはしても、生母に対して直接影響を与えることはできなかった。つまり、生母が授乳しないとしても、育児書の著者がそれを非難する回路はなかったのである。一方、(中略)母親を読者対象とする翻訳育児書は、授乳の勧めと授乳忌避への非難をともに直接的に母親に届ける。授乳するのが当然、しなければ非難を受ける、と教えられ、授乳に価値が付与されていった。こうして、翻訳育児書は、母親本人ひいては社会全体が子育てにおける母親の責任を重視する契機を作ったといえる。
江戸時代の育児書と明治初期の翻訳育児書は、ともに母親による授乳を推奨しているという共通点があった。しかし、江戸時代の育児書の読者対象が家長・父親であったのに対して、明治初期の翻訳育児書は母親に向けて書かれていた。これによって、子育てにおける母親の責任を重視する契機がつくられた、と中田氏は指摘している。
三島通良『はゝのつとめ』
ここで中田氏が明らかにしようとしているのは、『はゝのつとめ』における「母親の授乳や乳母雇用についての記述を検討し、翻訳育児書によってもたらされた育児の責任者としての母親観がどのように浸透しているかをみる」ことである(注5)。
中田氏は最初に、通良の『はゝのつとめ』は、だれを読者対象として書かれているのかを明らかにしている(注6)。
江戸時代の育児書の多くが男性読者すなわち父親に向けて書かれていたのに対し、本書は書名にも明らかなように「一般婦人をして母親及ひ小兒に対する衛生上の事項を容易く理解せしめんとの目的」(「親の卷」凡例一丁オ)をもつものであった。本書は母親を育児の主たる担い手にするという点で、江戸時代までの育児書とは大きく異なる。
『はゝのつとめ』は翻訳育児書と同様に、母親を読者対象としており、したがって、母親を育児の主たる担い手にすることを前提に書かれた育児書であることが明らかにされている。つまり、翻訳育児書が日本に紹介した「育児の責任者は母親」という考え方を、さらに広める役割を果たしたのが、通良の記した『はゝのつとめ』だといえるのである。
さらに、中田氏が指摘しているのは、通良が「国家富強」を推進する立場から、母子衛生法を説いているとする側面である(注7)。
三島が『はゝのつとめ』を著したのは、まだ東京帝国大学の医学生のときだったが、「国家富強の基は、人民の衛生に在り」と考え、とくに婦人と小児の衛生法が不十分なので自分で研究してその結果得た母子衛生法を公にすることにしたという(「親の卷」第二版の序)。
(中略)
「子の卷」の第一章「小児教養法の精神」でも、まず母親が子育ての責任を自覚することを求める。「小児〔こども〕は国民の基礎〔いしずえ〕で御座りまして、国民の健康と其元気とは、之を小児の時期に教養〔やしなは〕ざれば、決して真個〔ほんとう〕の健康と元気とを、得ることは出来ませぬ。そして此教養の任に当らるるのは、婦人方であります。著者の敬する婦人よ、希〔こいねがは〕くは厚く前條の主旨〔むね〕を体して、以て俊傑賢女の母儀〔はは〕たるべき任〔つとめ〕を尽されんことを望みます」(「子の卷」一丁ウ)と、子育てが国家的任務であることを説き、母親としての責務を果たすよう迫る。
通良の著作にみえる国家主義的な考え方については、後に検証していくことにしたい。ただし、通良は国家主義的な考え方を持ちながらも、基本的には医学的見地に基づいて『はゝのつとめ』を執筆したのであり、その底流には母親や子どもたちの幸せを願う純粋な気持ちがあったと考えてよいだろう。そして、通良が子どもたちの健康を強く願った背景には、弟と妹が幼くして亡くなったことがあったのではないか、と筆者は考えている(注8)。
次に、『はゝのつとめ』における「母乳哺育と乳母」の記述をみると、以下のような特徴があるという。『乳母の文化史』を引用して、その特徴を確認していきたい。
①育児は母親の責務である
三島はまず「親の卷」冒頭で、「受胎、妊娠、出産は、婦人の最も、愛す可き義務〔つとめ〕にて、養育教育は、最〔いと〕も神聖〔たふと〕き義務〔つとめ〕なり」(「親の卷」二丁オ)と書き、母親にその責務を認識させようとする。(p.242)
②授乳は母親の重要な任務である
なかでも母親による授乳は重要な任務とみなされ、「妊娠中の養生」という章において「乳房の準備」に最も多くの紙幅を割いている。ヨーロッパの上流階級を引き合いに出し、母親が病気でもなく乳も出るのに乳母や牛乳で育てる場合があるというのが不思議でならない。自分で育てるのが嫌なら産まなければよい。ヨーロッパではなぜ母親が授乳しないのかと尋ねたところ、授乳すると早く年をとって容貌が衰える、夜中に起きなければならないのが面倒、というのが主な理由とのことだったが、まったく浅ましい話であり、こういった風潮は輸入したくないものだと書いている(「親の卷」一八丁ウ)。「実〔げ〕に教養〔はぐく〕むと云ふ事は、人の母たる者の神聖〔たふとき〕義務〔つとめ〕なれば、夢等閑〔なほざり〕になさるな」(「親の卷」一八丁ウ)と覚悟を迫り、「職務〔つとめ〕を尽したる者には報酬〔むくひ〕あり。職務を怠る者には厳罰〔ばつ〕ありとは、社会一般の法律〔おきて〕でありますが。受胎〔みごもる〕、妊娠、出産、及び乳を哺〔のま〕せる事の四ヶ条は、婦人一生涯の間の法律でありますから、婦人たる可き者は、必ず之を守らなければなりませぬぞ」(「親の卷」一九丁ウ)と命じる。(p.242~p.243)
③母親はただ乳を出すのではなく、よい乳を出すように自己管理すべきである
続く第二章は「人乳」と題されているが、乳母の乳は含まれず、もっぱら生母による母乳哺育について述べられている。母乳に対する飲食物、運動、精神状態、薬の影響などについても述べ、「母親の養生十則」をまとめている(「子の卷」三丁オ―六丁ウ)。江戸時代の育児書にも、母親の乳が少ないときの対応策を述べたものはあったが、三島はただ乳を出すだけではなく、よい乳を出すための養生訓を詳述している。そして、子が強壮になるかならないは母親の自己管理にかかっていると、その責任を強調する。(p.243~p.244)
④母親が授乳できないときには、乳母を必要とする
このような場合〔著者注:母親が授乳できないとき〕「最も能く之に代る者は、乳母であります」(「子の卷」二〇丁オ)として、乳母について一章を割く。乳母雇用にあたって、乳母の鑑定というものはよい医者でなければできないが、医者の方でも、よい乳母を選ぶのは難儀であると書いている。(中略)また、乳母を雇ったとしても、生母がよく管理することを言い含め、そうでなければ、「母親たる人の、道ではありませぬ」(「子の卷」一三丁オ)と厳しい口調で戒める。(p.244)
⑤人工哺育は避けるべきであるが、どうしても必要な場合の注意事項
人乳(ここでの「人乳」は母親の乳のみならず乳母の乳も含む)で育てるスウェーデン、ノルウェーでの乳児死亡数は一〇〇人中一〇ないし一三人であるのに対し、牛乳やパン粥で育てるドィツのバイエルンおよびヴュルテンベルクでは一〇〇人中八五人であると、欧米での人工哺育による死亡率の高さを示す。このようによくよく危険性を強調したうえで、それでも人工哺育をする必要が生じた場合にはどのようにしたらよいか、という話になる。ここで第一に勧められるのは牛乳である。よく研究されており、入手しやすいというのが理由である。(中略)このほかコンデンスミルクについて、その製法と用い方について紹介し、いわゆる乳の粉については、三か月未満の子には飲ますことを禁じている(「子の卷」二三丁オー二四丁オ)。(p.245)
『乳母の文化史』における『はゝのつとめ』の分析についてまとめておく。
通良が著した『はゝのつとめ』は、母親による授乳を強く推奨しつつ、それができないときの代替法も具体的に紹介した育児書である。同書が読者として想定したのは女性・母親である。そして、そのことは女性・母親が育児の責任者であるという欧米流の考え方を、明治期の日本社会に広めていったと考えられる。
(注1)中田元子『乳母の文化史―一九世紀イギリス社会に関する一考察』p.7
(注2)中田元子『乳母の文化史―一九世紀イギリス社会に関する一考察』p.225
(注3)中田元子『乳母の文化史―一九世紀イギリス社会に関する一考察』p.233~p.234
(注4)中田元子『乳母の文化史―一九世紀イギリス社会に関する一考察』p.240~p.241
(注5)中田元子『乳母の文化史―一九世紀イギリス社会に関する一考察』p.242
(注6)中田元子『乳母の文化史―一九世紀イギリス社会に関する一考察』p.242
(注7)中田元子『乳母の文化史―一九世紀イギリス社会に関する一考察』p.242~p.243
(注8)近藤幹生「三島の育児書『ははのつとめ』における家庭育児観」、『明治20・30年代における就学年齢の根拠に関する研究―三島通良の所論をめぐってー』、風間書房、2010年、p.104~p.105において、近藤幹生氏も同様な見解を述べている。
(前略)筆者は、三島の家庭育児観を次のように位置づけたい。三島は、明治20年代半ば以降、明治政府・文部省行政の立場として富国強兵にかなう思想を展開していくようになる。こうした背景・制約をもちながらも、純粋に身体発育の専門家・医学者として家庭育児観を主張していた。
ウ)近藤幹生氏による考察―「三島の育児書『ははのつとめ』における家庭育児観」を読む
近藤幹生氏は、2008(平成20)年に発表した「三島通良『ははのつとめ』(明治22年)に関する一考察―家庭育児観の検討―」(注1)で、『はゝのつとめ』を著した通良が、どのような家庭育児観をもっていたのかを考察した。その後、同論文が若干修正されたものが、2010(平成22)年に刊行された『明治20・30年代における就学年齢の根拠に関する研究―三島通良の所論をめぐって―』(注2)に収録されている。「第3章 三島の育児書『ははのつとめ』における家庭育児観」というタイトルに改められているが、内容的にはほとんど変わっていない。
通良の家庭育児観の考察
まず、「三島の育児書『ははのつとめ』における家庭育児観」に沿って、『はゝのつとめ』にみられる通良の家庭育児観をみてみよう。
①「注意して放任する」子育て法
三島は、育児のあり方として、「注意して放任する」子育て法を説いている。上等社会と中等社会以下における子育てのあり方を比較し、次のように力説する。
「我国の上等社会の御児達のか弱いのは、皆人手がありすぎ、乳母や保母がよりたかりてチヤホヤと、そうして云うまま気ままに育てたる結果であります」「中等社会以下では手をかけたくも夫々の職務におわれ乳母の保母の人を置くこともならず、自然天然に任せるゆえ、強壮に育つのです」と主張する。ここから導かれる精神を、「注意して放任せよ(気をつけてはふっておけ)」としている。(p.95)
②哺乳即教育の端緒
乳児期の保育についても、授乳方法などを詳細に述べているのは、小児医学者の立場として当然であろう。注目したいのは、「啼く」ということについて、母親は要求をていねいにつかまなければならないと主張する点である。
「小児の啼くと云うのは、即ち小児の語〔ことば〕です。小児はロが利〔きか〕ぬ故啼て自分の意を母親に知らせるのですから啼いたときは真に空腹のか、或は倦怠なのか、或はしめしでも濡れて気分が悪いのか、腹痛でもするのかなど、能々考へて其望みをかなえてやらねばなりませぬ」(p.95)
③遊戯を中心とする家庭育児観
小児の発育にとって不可欠なのは、あくまでも遊戯を中心とした家庭での日常生活が基本であるという。遊戯については、具体的に「外方の遊戯」として戸外での活動をすすめていくことにより、男女ともに活発な子どもに成長していくとする。外での遊戯としては、男児の紙凧と女児の羽子が、絵入りで紹介されている。(p.96)
④家庭や学校における環境
三島は、遊戯を中心とする家庭育児とともに、家庭生活における環境についても、くわしく述べている。日当たり、温度、火傷への注意、換気への配慮などである。
(中略)
学校や幼稚園に通わせる場合には、その設備や環境には配慮する必要があり、特に母親が、小児の腰掛と机が適切であるか否かに注意するべきだと、以下のように主張する。
「先其所(学校や幼稚園のこと・・・・・・筆者)の腰掛や机は、其年齢の小児の体格に適合せて、造作ってあるか否かは、母親が注意可きところで、机や腰掛の悪かりし為、身体に曲がった所が出来たり、或ハ余り幼少から幼稚園に入れ、まだ脳の支度や眼の作用が充分でなきのに、縫取などをさせて、其為に非常に高度の近視眼になりなどするものが沢山ある」(p.96~p.97)
家庭から小学校への段差
近藤幹生氏の研究テーマは、就学年齢問題である。この問題は明治中期に起こった、小学校の就学年齢を満6歳にするか、満7歳にするか、という論争である。1896(明治29)年、第3回学校衛生顧問会議で就学年齢問題が議論された。学校衛生顧問会議(以下「顧問会議」)は、日本の学校衛生の骨格をなす政策を提言していった極めて重要な組織である。当時、通良は顧問会議の主事であり、事務方として顧問会議を統括していた。この会議においては、就学年齢を満6歳にするか、それとも満7歳にするか意見が分かれた。採決の結果、ドイツ人医師のベルツが提案し、通良らが賛成した満6歳案が、4対3の僅差で採択された。通良が主張していた就学年齢満6歳説が採用されることになったのである。
近藤幹生氏が着目したのは、「家庭から小学校への段差」の問題である。現在でも「小1プロブレム」などと呼ばれ、学校生活になじめない子どもたちの問題は存在するが、なぜ明治中期に、通良がその「段差」に注目することができたのか。それを知るために、『はゝのつとめ』にみられる、通良の家庭育児観を検討することになったという(注3)。
そして、近藤幹生氏は2つの仮説を提示して、その仮説をもとに『はゝのつとめ』を分析する、とした。その仮説とは、以下のとおりである(注4)。
三島の家庭育児観を検討するにあたり、筆者は以下の仮説をもった。
第一は、明治20年当初における三島の家庭育児観(小児教養法の内容)には、その後、確立をみる学校衛生学の萌芽が、すでに存在していた可能性があるのではないかということである。三島は、明治24年、文部省嘱託として学校衛生行政に関与して以来、日本における学校衛生学の確立に積極的に貢献していった。しかしそうした力量は、いきなり形成・発揮されたのではないと思う。(中略)
第二は、三島の就学年齢論は、家庭育児観を土台に組み立てられたのではないかという点である。『就学年齢問題』における三島の理論構成のうち、家庭から学校への就学の段差について、三島がどう認識していたのかは、鮮明ではなかった。しかし、『ははのつとめ』に遡り主張を検討していくことにより、家庭育児と学校との関わりが浮き彫りになってくる。(中略)三島の就学年齢論の基礎は、家庭育児観にあることを仮説としたい。
1つ目の仮説は、『はゝのつとめ』を書いた学生時代の通良に、文部省時代に開花する学校衛生学の萌芽がすでに存在していたのではないか、というものである。
近藤幹生氏は、通良が文部省から学校衛生事項取調嘱託を委嘱された後、1893(明治26)年に記した『学校衛生学』の内容について着目した。結論から言えば、通良が帝国大学医科大学に在籍中に記した『はゝのつとめ』には、すでに『学校衛生学』の中心的内容が示されている、つまり、通良が文部省に関与する以前から、基本方向は示されていた、と近藤幹生氏は指摘しているのである。
「狭き所に大勢の小児を遊バせ、悪き塵埃の混合った空気を呼吸た為に肺病を発させたりなどすることも度々ありますから」「世の母親及び教育家は注意あらまほし」
三島は、後に文部省行政に関与してから、学校衛生主事として学校医を設置するためにも力を尽くした。しかし、それ以前から身体発育を踏まえて、小児医学者の立場から、幼児・児童にとっての学校環境・衛生に注目した見解を表明していたことが、ここからも明らかになる。(p.97)
こうしてみると、学校衛生学の中心的内容は、三島が文部省に関与する以前、すでに『ははのつとめ』において、基本方向は示されていたのである。(p.99)
第一の仮説検証として、『ははのつとめ』には、その後確立をみる学校衛生学の知見が、すでに含まれていたことがわかる。三島は、文部省学校衛生行政に関与する以前から、劣悪な学校・幼稚園などの環境・設備の問題点に関心をもっていたのである。(p.105)
そして、もう1つの仮説は、通良の就学年齢論は、家庭育児観を土台に組み立てられたのではないか、というものである。このことについては、近藤幹生氏は次のように結論づけている。
(前略)三島の就学年齢論は、学校衛生学と家庭育児観により構成されていることがわかる。就学という課題を、遊戯を中心とする家庭育児観からみるからこそ、三島は、家庭から学校への段差に注目できたと言えるだろう。つまり、家庭で自由奔放に遊戯を中心とした生活をしていた幼児たちが、学校への就学による変化(段差)にさらされてしまう。三島は、こうした幼児・児童の状態を三島が[ママ]認識しようとしていたからこそ、学校環境を問題視でき、(中略)小学校第一学年への具体的配慮を主張できたのである。(p.105)
通良の家庭育児観の由来
近藤幹生氏の論文、「三島の育児書『ははのつとめ』における家庭育児観」の内容を紹介してきたが、最後に同論文で課題として残されていたことについて、考えてみたい。
三島の出自でわかっているのは、武州入間郡(現在の埼玉県)出身で、家系が修験道であったということぐらいである。三島は、明治11年以降、外国語学校に学び帝国大学医学部、さらに同大学院へ進学した。学生時代に父親を失っており、苦学の末、学士(後に博士)を取得する。
以上の諸事情から、筆者は、三島の家庭育児観を次のように位置づけたい。三島は、明治20年代半ば以降、明治政府・文部省行政の立場として富国強兵にかなう思想を展開していくようになる。こうした背景・制約をもちながらも、純粋に身体発育の専門家・医学者として家庭育児観を主張していた。『ははのつとめ』にみる三島の家庭育児観は、家庭における乳幼児や児童の現状を見つめ、母親の職務を啓蒙する姿勢を明確にもっていたことを示している。遊戯を基本とし「注意して放任する」という三島の家庭育児観の由来については、引き続き解明すべき課題があると考えている。(p.104)
近藤幹生氏は「三島の家庭育児観の由来」が解明すべき課題であると述べている。筆者は、通良が育った家庭環境こそが、その課題を解明する鍵であると考えている。
通良は『はゝのつとめ』のなかで、「我国の上等社会の御児達のか弱いのは、皆人手がありすぎ、乳母や保母がよりたかりてチヤホヤと、そうして云うまま気ままに育てたる結果であります」「中等社会以下では手をかけたくも夫々の職務におわれ乳母の保母の人を置くこともならず、自然天然に任せるゆえ、強壮に育つのです」と述べていた。「笠幡時代の通良」の項で詳細に述べたが、通良の実家は笠幡村の修験寺院・大泉院で、にぎやかなサロンのような場所であったと考えられる。横田稔編『武蔵国入間郡森戸村 本山修験 大徳院日記』から想像される三島家の家族構成も、大家族だった可能性が高い。したがって通良の母・ふきは、来客への対応や家族の世話で忙しく、子どもに教育についても「自然天然に任せる」という形にならざるを得なかったであろう。
つまり、通良が『はゝのつとめ』で「中等社会以下」の家庭の子育てのモデルとしたのは、他ならぬ三島家の育児だったと考えるのが自然である。そもそも、子育ての経験もない大学生が『はゝのつとめ』を記したわけであるが、医学的知見をもとにしているとはいえ、育児に対する何らかのイメージなしには同書を記すことはできなかったであろう。そう考えたときに、「注意して放任」されて育ったのは、通良自身であり、幼い弟や妹を育児している母・ふきの様子を思い出しながら、通良は『はゝのつとめ』を執筆したのではないか。杉浦氏が指摘しているように、通良は「自分の母から受けた慈愛と薫陶に対する感謝の念を、この一書にそそぎ込んだ」(注5)と考えられるのである。
(注1)近藤幹生「三島通良『ははのつとめ』(明治22年)に関する一考察―家庭育児観の検討―」、『白梅学園大学・短期大学紀要』No.44、2008年
(注2)近藤幹生『明治20・30年代における就学年齢の根拠に関する研究―三島通良の所論をめぐってー』、風間書房、2010年
(注3)近藤幹生『明治20・30年代における就学年齢の根拠に関する研究』p.92
(注4)近藤幹生『明治20・30年代における就学年齢の根拠に関する研究』p.93
(注5)杉浦守邦「三島通良」(1)、『学校保健研究』10(2)、1968年、p.76